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同じ名前だ

アンジュナビーチにある、ドアすら付いていない菓子の売店兼チケット屋という、およそ信頼とは無縁の場所で帰国便の航空券を買った。 コルカタを発ち上海を経由して福岡空港へ至る。 検索サイトの網には決して掛からない、得体の知れない格安チケットが実在するという噂は、どうやら本当であったらしい。
壮絶な人生の轍を背負った女彫り師と出会ったことを除けば、この一週間、僕がゴアで成し遂げたことといえば、せいぜいその程度の、事務的な手続きくらいのものであった。

かつての狂乱が湿った砂に埋もれ、色褪せたヒッピーの残影と、正体不明の気だるさが、雨季の重苦しい曇り空の下でどんよりと淀んでいる。そんなアンジュナの、ただならぬ執念の残滓が肌にまとわりつくような空気には、どうにも後ろ髪を引かれるものがあった。
しかし、僕はその粘りつくような名残惜しさを振り切り、次なる目的地、聖地ハンピを目指したのである。

まずはアンジュナからマプサへと、十ルピーの錆だらけのローカルバスに身を投じる。その鉄箱は、あろうことか乗降口のドアが完全に撤去されており、走行中も外界の混沌に対して全開という、狂気の仕様だった。
いつ千切れてもおかしくない手摺りに縋り付き、満員の乗客に揉みくちゃにされながら、四十分の空中戦を耐え抜く。もはや振り落とされて死ぬことへの恐怖すら、ムンバイ以降の僕には希薄だった。
マプサのターミナルには、刺青を刻み世界を漂うフランス人や、アコーディオンとシタールを抱えたデンマーク人など、文明から逸脱した「本物の表現者(ヒッピー)」たちが集結していた。彼らの放つ浮世離れしたオーラこそが、ハンピ行きのバスを指し示す何よりの標識だった。

マプサからハンピへの道程は、まさに地獄の沙汰だった。
インドの地方道路という名の不規則な隆起が、二階建てバスを激しく揺さぶる。ほどなくして、上階からは「ゲロゲロ」という、内臓の裏返るような不吉な音が断続的に響き始めた。
車酔いとは無縁の僕であったが、四方から漂う臭気と、内臓を直接シェイクされるような振動に、意識が遠のいていく。
ようやく停まったのは、果てしない大草原の真ん中だった。
「皆の者、トイレ休憩だ」
トイレなどどこにもない。野郎どもは草むらで用を足せば済むが、地平線の彼方まで歩いていく女性陣の背中には、諦めが貼りついていた。その傍ら、バス横で平然と大盛りの脱糞に及ぶインドの老婦人の、「大地と一体化した精神」に、僕はただ圧倒されるしかなかった。

十時間の激闘を経て、夜のハンピへと辿り着いた。
降りるなりバイタクの群れに包囲され、「一泊二百ルピーの極楽がある」という甘言に乗せられて向かった先は、もはや建築と呼ぶにはあまりに謙虚すぎる空間であった。
壁、屋根、そしてベッドらしき隆起。以上。
電気もなく、床は剥き出しの土。それは宿泊施設というよりは、高度に概念化された野宿だった。僕の故郷、九州の山奥にはこういう感じの「バス停」がある。

「泊まらないなら金を払え」と喚く運転手を、虚無の微笑みで振り切り、僕は村へと逃げ込んだ。
水牛が闊歩する農道を彷徨い、ようやく電気が通る宿を見つける。
「ここで手を打とう」
埃の舞う部屋に荷物を置き、ぬるいビールで、泥のような疲労を胃に流し込んだ。
西日が残酷なまでにこの小さな村を照らし出す。一息つくと、正体不明の焦燥に突き動かされるように、僕は再び外へと這い出した。

赤土の地面に這いつくばるように並ぶ小さな売店や食堂。その店先で、男たちは強い日差しを避けるように座り込み、ただ流れる時間を眺めている。岩山に囲まれたこの村は、外界の喧騒から切り離された巨大な水槽の底のように、緩やかで濃密な停滞に満ちていた。

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神様が遊び半分で積み上げたような巨岩の丘、「マタンガ・ヒル」が見える。
あれを登る。そこが、四ヶ月に及ぶ旅の終着点だ。
村の境界には、鈍い光を湛えたトゥンガバドラー川が横たわっている。岸辺に腰を下ろし、僕はその流れをぼんやりと眺めた。丸っこい椀のような渡し舟が、バックパッカーたちを次々と対岸の南側へ運んでいく。さっきバスを降りた際に見かけた、アコーディオンを抱えたドレッドヘアの男が舟に揺られていくのが見えた。僕は今、北側にいる。明日、あの不可思議な乗り物に揺られて、聖地の核心部へと足を踏み入れなければならない。

夕陽が美しいと聞いていた。僕はそのまま、光が衰えるのを待つことにした。
背後から、ぼろぼろの布切れを纏った二十歳くらいの男が現れた。彼は屈託のない笑みを浮かべ、自らを「シン」と名乗った。
「同じ名前だ」
僕がそう伝えると、彼は弾かれたように大喜びし、その場で奇妙な踊りを見せ始めた。周囲には広大な田園と、無機質な岩山、大河があるだけだ。観客など僕一人しかいない。だが、彼の踊りには一切の浅ましさがなかった。ただ、名前が同じであるという、それだけの事実に百パーセントの歓喜を爆発させていた。

シンはどこかから千切ってきた巨大なバナナの葉を、手のひらほどの大きさに丁寧に整え始めた。その上に、紅茶の茶葉に似た乾燥した植物をパラパラと散らし、手慣れた手つきでクルリと巻いた。大麻だ。
彼は三回ほどマッチの火を無駄にしながら、ようやくそれに火をつけた。喉の奥まで深く吸い込み、煙を吐き出す前に、満面の笑みでそのバナナの巻物を僕に差し出してきた。
この旅を通じて、僕の身体にはある種の防御本能が染み付いていた。宿、乗り物、食事、そして他人の笑顔。そのすべてに疑いの目を向け、差し出された初手はひとまず拒絶する。二番手、三番手の案を吟味し、交渉し、時には無視して、インターネットの海で正解を再考する。そうして、あらゆる選択に膨大な時間を費やし、神経を摩耗させて生きてきた。いや、そうでなければこの国では死んでいた。
「一回くらい、迷わず信じてみればいいじゃないか」
知らない自分が、内側からそう囁いた。僕は疑念という防護服を脱ぎ捨て、彼の善意をそのまま受け取り、思い切り肺の奥まで吸引した。

かつてセブ島で、ドミニクという男に紙巻を口に突っ込まれ、「吸え、吸わねば、死だ」という強制力の下で吸わされたのとは違う。これは、自分の意思で選んだ、この旅二度目の大麻だった。
酒に酔う感覚に近いが、鼓動は穏やかだった。その代わり、思考のスピードが脳髄の制限速度を軽々と突破していく。前回は誰かの屁について思考の迷宮を彷徨ったが、今回は違った。
激しく咳き込む僕を見て、シンは自分のことのように嬉しそうにしている。僕は持っていた水を彼と分け合い、極端に乾いた喉を潤しながら、沈みゆく夕陽を見た。
「これで、ゴールでいいじゃないか」
この黄金色の光の中に溶けてしまえば、もうあの過酷な岩山を登る必要なんてない。そう思えた。

だが、大麻は残酷に記憶を削る。気がつけば辺りは闇に包まれ、僕は自分の宿がどこにあるのかさえ分からなくなっていた。朦朧とする意識の中でシンに地図を見せ、彼の先導でなんとか辿り着いたが、身体は鉛のように重い。ふらふらのまま、僕は朝まで泥のように眠るべく、ベッドへと倒れ込んだ。

その時、ある種の不穏な予感が、麻痺した脳を鋭く突き刺した。
シーツに染み付いた黒い点、この風通しの悪さ。
奴らがいる。バックパッカーが最も恐れる死神、南京虫だ。
ベッドを裏返した瞬間、僕の予感は確信へと変わった。そこには、僕の選択を祝福するかのように、びっしりと蠢く闇の軍勢がいた。
「最悪だ」
絞り出すような声で悪態をつき、ふらふらの体で受付へと向かった。長時間にわたる不毛な交渉の末、ようやく別の部屋を確保した頃には、精神の糸は今にも千切れそうだった。

部屋を替わり、僕は果物屋で買ったマンゴーとバナナをテーブルに並べた。
大麻の残響で思考の輪郭がぼやけ、南京虫との戦闘で使い果たした気力が、僕の身体を椅子に縫い付けていた。自分が今、インドのどこにいて、なぜ果物を齧っているのかさえ、遠い前世の記憶のように感じられる。ただ、甘すぎる果汁が口内に広がる瞬間だけ、僕は自分がまだ生きていることを確認した。
ふと、セブ島で吸わされたあの時の「誰かの屁」のことを思い出した。
あの時は、他人の生理現象というくだらない深淵に思考を奪われたが、今は違う。マンゴーを飲み込む嚥下音さえ、この静寂の中では巨大な意味を持っているように思えた。
「まだ、ゴールしていない」
結局、僕は登らなければならないのだ。
かつてパスポートを売ってまで何かに執着していたヤブレの、あの狂信的なまでの眼差し。彼が求めたものが何だったのか、今なら少しだけ分かる気がした。僕は、最初に見ると決めたあの岩だらけの景色を、この目で見届けなければならない。
そこにあるのは、モチベーションでも希望でもない。ただ、残された最後のタスクだ。
旅をやめるために、僕は旅を完遂する。そういう回りくどい話になってしまった。明日、僕は川を渡る。

残務の整理

朝、僕は川の北側を捨て、南側へと移動を開始した。
眼前に横たわる川は、気合を入れれば徒渉できそうに見えて、その実、底の見えない深さを湛えている。一時間に一本という触れ込みの渡し舟は、人が集まるまで頑として動かない。僕は一時間、ただひたすらに、動かぬ水面を眺めて待った。

辿り着いた南側の集落で、適当な宿を見つけ、屋上に上がる。
視界を塞ぐように巨大な岩が転がっていた。これまで常に大量の他者に包囲され、自分という輪郭を摩滅させてきた僕にとって、この石の塊が放つ沈黙は何物にも代えがたい救いだった。

ビザの期限は十一月三日。帰国便は二日の深夜、コルカタ発。
あと四日、ぐずぐずしていられない。足場が悪かろうが、僕は今日、この岩山を登り、この旅に物理的な句読点を打たなければならなかった。

足元はバラナシで買った頼りないサンダル。地面は昨夜の雨を吸い込み、致死性の滑らかさを帯びている。
それで僕はマタンガ・ヒルへと挑んだ。暗くなれば山賊が現れるという噂を背に、巨大な岩の間を縫うように、一歩一歩、垂直の迷宮を登り始める。
頂に近づくにつれ、住人の質が変わった。猿である。彼らは愛くるしい外見の裏に、刺激すれば容赦なく襲い掛かる野生の凶暴性を隠し持っている。僕は忍び足で、彼らの領土を慎重に通過した。

なんとか辿り着いた頂上。
眼下に広がるのは、四ヶ月間、僕が夢にまで見た風景であった。
そこには、数え切れないほどの巨岩が、まるで巨人が投げ捨てたサイコロのように、地平線の果てまで撒き散らされている。
西日に照らされた岩肌は、酸化した血のような赤に染まり、長く伸びた影が迷路のように地表を侵食していた。風化した寺院の柱が、折れた骨のように岩の隙間から突き出している。
この景色は帝国の残骸というより、人間という種そのものがまだ影も形もない頃からそこにあり、これから先も変わらず存在し続けるであろう、気が遠くなるような永劫だった。

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ズタボロのiPhone5。その狭い画面に、この広大さが収まるはずもなかった。だが僕は、呼吸を整えることしかできぬまま、無心でシャッターを切った。
液晶に定着したばかりの、その一瞬を見返す。
その隅に、一匹の猿がいた。
かつて「地球の歩き方」の誌面で、嫌というほど眺めたあのハンピの写真。その構図と全く同じ位置に、僕が閉じ込めた猿も岩に鎮座し、虚空を見つめていた。
僕が心血を注いで辿り着いたこの絶景は、結局のところ、既製品のトレースに過ぎなかった。そのあまりに滑稽な一致を前に、僕はただ、立ち尽くすしかなかった。
かつての僕なら、この一致に運命的な何かを見出し、安っぽい言葉で飾り立てていただろう。だが、今の僕には、その猿と自分を分かつ境界線すら曖昧だった。猿も、岩も、この赤土も、そして空虚な僕も、ただこの光の中に等しく置かれている。

感動はなかった。
昨日、シンとバナナの葉を回し、夕陽を眺めたあの瞬間に、僕の旅は一度、完成してしまっていたからだ。この頂上で吹く風は、発車した列車のあとのホームのように、ひどく記号的で、冷え切っていた。
成田で掲げた目標に辿り着いたという事実は、達成感よりもむしろ、僕を縛り付けていた最後の鎖が外れてしまったような、足元の心許なさを僕に与えた。
あとは、この肉体をコルカタへ運ぶだけだ。
振り返らずに岩を下り始めた。
絶景を噛み締めるよりも、サンダルが滑って爪が剥がれることの方が、今の僕にはよほど切実な問題だった。
「さて、帰るか」
吐き捨てた声は、乾いた風にさらわれ、赤茶けた岩山の沈黙の中に消えた。

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退屈という贅沢

僕に残された時間は、もはや砂時計の最後の一粒に等しい。
コルカタまで一千八百キロ。日本列島を縦断するほどの距離を、宿泊なしの五十五時間という行程で突破せねばならない。もはや旅ではなく、輸送だ。

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まずはハイデラバード行きの寝台バス。十五時間の揺れは、内臓と骨格を無慈悲に翻弄する。翌朝、ハイデラバードに降り立った僕の身体は、完全にその機能を停止していた。首は据わらぬ赤子の如くぐらつき、背筋はインドの悪路によって粉々に粉砕されたかのような錯覚を覚える。

ただの経由地であるハイデラバード。そこは、七百万人を超えるインド人が、それぞれの生を謳歌する巨大な有機体の如き都市であった。
観光地ではないこの街において、僕は完全なる異物となった。コルカタ行きの列車まで十五時間。僕は駅の預かり所にバックパックを放り込み、目的もなく街へと踏み出した。
朝食にプーリを食す。揚げたてのサクサクとした生地にソースを絡め、駅前の立ち食い場で、ただひたすらに胃袋へ流し込む。一食三十ルピー。この旅で何度、この安価な救済にすがったことだろう。

歩き始めて一時間、僕は奇妙な違和感に襲われた。
誰も、僕を相手にしない。
これまで訪れたバラナシやデリーといった「獲物の集まる場所」では、一歩歩くごとに詐欺師やガイドの群れに包囲され、精神を削り取られるのが常だった。しかし、ここには僕を「カモ」として認識する者は一人もいない。
トゥクトゥクの前を通っても、屋台の横を抜けても、誰も声をかけてこない。僕はただ、七百万人のインド人の中に埋没し、透明人間のように街を漂う。
「この平穏こそが、望んでいたものではないか」
そう自分に言い聞かせながらも、僕は知らず知らずのうちに、あの鬱陶しい熱量を欲している自分に気づき、愕然とした。
誰にも相手にされぬまま、湖に浮かぶブッダ像をぼんやりと眺め、「あれみたいだな、僕は」と、そんな無機質の友人を見つけるのがやっとであった。
インドの街中にあって「退屈」を感じるという、贅沢極まりない地獄があることを旅の最後に知った。

午後七時。列車の発車時刻が近づくころ、僕は駅のベンチに横たわった。バックパックを枕にし、音楽を聴きながら、この虚無の一日を反芻する。
「バラナシやデリーのような、あの魂の削り合いがなければ、やはりインドはつまらぬものだな」
そんな不遜な思考が脳裏をよぎった、その瞬間だった。
気づけば、僕の周囲には三人の物売り、野心に燃えるオートリキシャの親父、そしてサモサを掲げた兄ちゃんの計五人が、壁のように立ちはだかっていた。
「買え」「乗れ」「食え」
彼らは同時に、それぞれの切実な欲望を僕に叩きつけてくる。
僕は、一気に押し寄せてきた正解の如き喧騒に、苦笑いしながら身を任せた。もはや退屈などという高尚な悩みは、微塵も残っていない。僕は彼らに促されるまま、人混みをかき分け、コルカタ行きの列車へと乗り込んだ。

肉体、及び堆積物の輸送

二十五時間、僕は三段寝台の硬い板の上で、意志を持たないただの荷物として運ばれていた。
端末の電源はとうの昔に尽き果て、時刻も現在地も、もはや判然としない。日記帳を開いたところで、そこへ流し込むべき言葉は一滴も残っていなかった。糞尿がどうだ、詐欺師がどうだという、インドに対する手垢のついた饒舌な分析は、列車の振動と共に鉄錆へと変わっていく。
悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。達成感も後悔も、どこか遠い国の出来事のようだった。僕はただ、そこにある二十五時間分の純粋な退屈を咀嚼し、吐き出し、コルカタ駅の薄汚れたホームへと降り立った。
ハンピを出てから六十時間が経っていた。当初の予定では五十五時間のはずだったが、まあいい。五時間という数字は、この国において、あるいは今の僕にとって、取るに足らない誤差に過ぎなかった。

成田を発ってから四ヶ月。僕は、インドの初日に身を寄せたあの宿の門を叩いた。サダヲと出会い、この国の洗礼を受けたあの場所だ。
「ああ、戻ったんだね」
出迎えたスタッフの反応は、石のように冷ややかだった。十都市での激闘も、ここでは日常の景色に過ぎない。その無関心が、今の僕には心地よかった。

夕食のカレーを作るから、食いたかったら鶏肉を買ってこい、と金を手渡される。
「一人でか」
聞き返したが、スタッフは既に背を向けていた。僕は重い足を動かし、かつて恐怖で直視できなかったコルカタの裏路地へと、独り、這い出した。
市場の奥、死臭と湿気が凝固した場所に辿り着く。店主が檻から生きた一羽を掴み出し、躊躇なくその首を落とした。狂ったようにのたうつ肉体がドラム缶の中で最後の火花を散らし、瞬時にそれは「食材」へと解体されていく。差し出されたポリ袋の中には、まだ捌きたての鶏肉が収まっていた。掌に伝わってきたのは、傲慢なまでの「熱」だった。数分前まで呼吸し、脈動していた個体の、なま温かい残響。
この四ヶ月、僕は自尊心を削り、自意識を殺し、空虚な座標の一点として移動を続けてきた。だが、この血生臭い肉の塊は、そんな僕の小賢しい思索を嘲笑うかのように、圧倒的な生の温度で僕の手を焼く。久しぶりに、自分以外の生命に触れた気がした。それは美しくも尊くもない、ただただ重く、生々しい肉の感触だった。

寺院、モスク、大聖堂。僕は余った時間をどう使うか考えたが、すぐに、その思考自体が下らぬものに思えてやめた。 宿で拾った日本の文庫本を抱え、僕はサブウェイに行き、そこからさらにマクドナルドへと流れた。 予測可能な調味料の味と、慣れ親しんだ母国語の羅列。それらに守られながら、僕のインドは驚くほど静かに、そして意図的に安全なまま、幕を下ろしたのである。

空港へ向かうタクシーの窓から、最後にコルカタの街を眺める。
排ガスと大量の投棄ゴミに塗れたこの混沌を前にして、初日の言葉が不意に脳裏をよぎった。
「荒廃には肉が必要だ」
まさにその通りだった。この救いようのない風景を繋ぎ止めているのは、神の慈悲などではない。市場で殺された鶏や、路地でうごめく人々の、このひどく不潔で温かい肉の連なりこそが、インドという巨大な矛盾を支えているのだ。

チェックインを済ませ、搭乗ゲートのベンチに腰を下ろす。強力すぎるエアコンの冷気が、汗ばんだ肌を容赦なく刺した。
僕は思い出す。マレー鉄道で寒さに震え上がり、死を覚悟したあの夜のことを。あの教訓を糧に、僕はわざわざバンコクで、パーカーを購入していた。
だが、その長袖は今、預け荷物の中で静かに眠っている。
「成長してないね。わはは」
僕は吹き付ける冷気を受け流しながら、独り、乾いた声で笑った。

二〇一三年七月五日から十一月三日。
二十六歳、初めての海外。
四ヶ月、七ヶ国。二十一箇所。軍資金七十万円、残り二十万円。
そもそも金が尽きたらカナダへ働きに行くという、生活の帳尻を合わせるための逃避行だったはずだ。自分を変えるための旅だったのか、自分を確認するための旅だったのか、それすら定かではない。ただ、僕はパーカーの場所すら把握できないまま、この不完全な肉体を運び去るだけだ。
「向いてないのだな、きっと」
搭乗のアナウンスが流れる。僕は凍える肩をすくめ、愛すべき、そしてどうしようもなく救いようのない混沌に背を向けた。
さらば、インド。


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「インドからですか。そうですか。荷物の中身、確認させてもらいますね」
半日後、僕は福岡空港の犬と、犬のように鼻を利かせる制服の男に捕まり、静寂の中に立っていた。
「これは。あとこれも」
「ああ、それ、ゴミです。正確には、四ヶ月かけて収集した、ただのゴミです」
男は僕の言葉に眉ひとつ動かさず、ゴム手袋をはめた手で、僕の四ヶ月という名の堆積物を淡々と検品していく。やがて興味を失ったようにパスポートを返し、顎で出口をしゃくって「次の方、どうぞ」と、背後の列へ視線を投げた。
あまりに清潔で、あまりに整然とした祖国の空気。自動ドアが開くたびに流れ込む日本の冷気は、非情なまでになめらかで、さっきまで手に残っていたあの鶏肉の、泥臭く生々しい熱を、一瞬にして奪い去っていった。
熱狂も、憎悪も、あの赤土の匂いも、この無機質なクリーンルームのような空間では、たちまち実体を失って霧散していく。
バックパックからようやくあのパーカーを引っ張り出した。
日本にいるとそれが酷く臭う。情けない重みを肩に感じながら、僕は日常という名の、次なる放浪へと一歩を踏み出した。
結局、僕は何も手にしていなかった。
ただ、一着の異臭を放つ長袖と、軽くなった財布、そして、二度と戻ることのないあの岩山の沈黙だけを抱えて、次の輸送のことを考えた。

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