スポンサーリンク

宿と難民

三時間後、バスの扉が開くと、そこは摩天楼の林立する大都市クアラルンプールであった。人口三万人に満たない田舎町で、牛蛙の鳴き声と田んぼの緑に囲まれて育った僕にとって、高層ビルとはそれだけで畏怖の対象である。
駅の二階から、都会の喧騒をおのぼりさん丸出しの顔で眺めていたその時、一匹の異様な男が接触してきた。

画像

「ハロー、僕はシンガポール人なのですが、荷物を全部盗られてしまって」
話しかけてきたのは、その輪郭から節足動物の気配を隠しきれない、カマキリのような面構えの男だった。異国で全財産紛失。僕ならその場で人生の閉幕を宣言する。しかし、あいにくマラッカで現金を使い果たしており、見ず知らずの昆虫のためにATMへ走るほど、僕の慈悲は安売りしていない。
「リンギットは無いけれど、シンガポールドルなら少々余っている。君はシンガポール人なのでしょう。これをあげるよ」
僕は十ドル札を差し出した。これぞ、バックパッカー紳士としての施しである。ところが、カマキリの態度は一変した。
「はあ、少な。ていうかここはマレーシアだよ。リンギットじゃないと困るんだけど」
その瞬間、僕の脳内で警報が鳴り響いた。自国の通貨を拒絶する者がどこにいる。さては貴様、擬態に失敗した偽物だな。
「いらないなら結構だ」
僕が立ち去ろうとすると、カマキリは僕の肩を掴んだ。
「おい、待てよ。それはそれでもらうから」
残念ながら、僕は人に物を頼む礼儀を知らぬ不届き者を養うほど、お人好しの極致には達していない。よく見れば、奴のポケットには最新のモバイルが鎮座しているではないか。
「その立派な端末でお母ちゃんに泣きつきなさい」
そう言い捨てて歩き出すと、背後でカマキリが仲間と思しきコオロギのようなデブと合流し、僕を指差して何やら鳴き交わしていた。鳥肌が全身を覆う。都会の生態系は、思っていたよりずっと獰悪だった。

逃げるようにして辿り着いたのは、一泊六百五十円という、価格破壊の極致にある宿『イルシアゲストハウス』。スタッフの対応は、つかず離れずの絶妙な距離感を保っている。冷たい水とタオル。Wi-Fiの繋がるスポットを的確に指示するその手際は、まさに旅人の心を知り尽くした「ちょうど良さ」の体現だった。
一階のテラスには、世界各地から漂着した「ダラダラを愛する民」が集っていた。その中に、一際異彩を放つ男がいた。シリア人のアルバロである。

画像

「俺は日本人から剣道を習っているんだ」
彼はそう言うと、木刀を振り回し始めた。その軌跡が、僕がかつて剣道部で叩き込まれた型とは異次元の独創性を描いていたことは言うまでもない。しかし、彼は「武士道とは基本を重んじて、精神を鍛えるものだ」と、泰然自若とした面持ちで語っていた。

画像

そして、十年間世界を放浪しているというオランダ人のカリスマ旅人のリカルド。百カ国以上を巡った彼が、断固として言い切った。
「一番好きな国はラオスだ」
ラオス。僕の視界には一切入っていなかったその国。カリスマがそこまで言うのなら、何かがあるに違いない。僕は、いつかその地へ足を踏み入れることを、心の片隅に深く刻み込んだ。

画像

翌朝、僕はルームメイトであるイラン人のアレフに誘われ、ペトロナスツインタワーへ行くことになった。見た目は少々威圧的おっさんであるが、根は優しい男だ。
準備のために部屋へ戻ると、そこには異様な光景が広がっていた。アレフが、一本丸ごと使い切る勢いでデオドラントスプレーを全身に噴射しているのである。彼の周囲には、スプレーの粒子による濃密な霧が発生し、安宿の一室は幻想的な雰囲気に包まれていた。
「おいおい、やりすぎだよ。部屋の中が朝のマチュピチュみたいになってるじゃないか」
リカルドも苦笑いしている。アレフは「ジャス、ア、モーメン」と叫びながら、霧の中から僕を手招きした。この時の僕はまだ、この霧が何のための演出なのか、その真の意味を理解していなかった。

クアラルンプールの街は熱気に溢れていた。八十八階建てのツインタワーは、地震のないこの国の象徴として、天を突く暴力的な高さでそそり立っている。
隣を歩くアレフは、露骨なまでに野郎どもを、それも東洋系のイケメンばかりを凝視している。
「まさかな」
邪推は良くない。僕は確証のない偏見を抱く自分を戒めた。
しかし、混雑した通路で彼がいきなり僕の手を握り、強引に引っ張り始めた瞬間、僕の脳内の「まさか」は確信へとスライドした。僕は彼を傷つけぬよう、かつ明確な拒絶の意思を込めて、そっとその手を剥がした。
ランチの後、彼は「ちょっと待ってて」と言い残し、巨大なソフトクリームを両手に携えて戻ってきた。四名掛けのテーブルであるにもかかわらず、彼は僕の真隣にぴたりと腰を下ろす。
「もうそれ、好きやん」
マラッカのウニといい、アレフといい、僕の何がマレーシアの性欲を刺激するのか。尋常ならざるスプレーの香料と、アレフが放つ生々しい男臭。それが混ざり合う中、無言で頬張るソフトクリームは、僕の中で「マレーシア三大珍味」の筆頭に躍り出た。
アレフは夜景を見に行きたいと言い出したが、「今度みんなで行こうよ」と、僕はモテる女のような断り文句を捻り出していた。

宿という名の避難所へ無事戻ると、セブ島で知り合った友人、サラガミから「一週間後にバンコクで会おう」という連絡が入っていた。
「一週間」
急がねば。クアラルンプールでおっさんといちゃついている場合ではない。僕はタイへ向かう道すがら、立ち寄りたい場所があった。マレーシア北部のペナン島だ。
と言っても大した理由はない。海外で船に乗ってみたい、ただそれだけだ。人はどういうわけか、水辺が気になる。

クアラルンプールでは、ただひたすら街を歩いた。そして、宿で出会った友人たちと、早い時間から酒を飲むだけの数日を過ごした。

画像

剣道家のアルバロと同じく、シリアから来たパーラという三十歳の女性がいた。美しい人だった。
彼女たちは本物の難民だった。やけに中東の人間が多い宿だとは思っていたが、その言葉の重さまでは、正直よくわかっていなかった。

「もうめちゃくちゃよ」と、彼女はどこか無理をしているように笑った。
僕は何か言おうとして、やめた。
代わりに酒を飲んだ。そっちのほうが簡単だった。
夜、一人で中東の情勢を少しだけ調べた。調べたところで、世界はどうにもならないのだが、まあ、余計にややこしい気分にはなった。
そういえば、僕もずいぶん気軽に避難していた。

濃厚な移動、ペナン島へ

翌朝、僕は、もはや家族も同然となった仲間たちと、最後となる「無料の朝食」を囲んでいた。
午前十時、チェックアウト。宿の外で、感動の別れが幕を開ける。アルバロは「またどこかで会おう」と熱く拳を固め、百カ国を巡った鉄人リカルドは「マルタに来たら連絡しろ」と豪快に笑う。僕を弟のように慕ってくれていたパーラに至っては、そこまで泣くかというほどの大号泣で、僕に謎の白い石をお守りとして託してくれた。
そしてアレフ。彼は、ウルウルとした瞳で「またデートしようね」と、最後までその愛のベクトルを僕に固定していた。

駅までは徒歩四十分。重いバックパックを背負っての行軍に、僕の「臆病な旅人」としての魂が悲鳴を上げていた。そこへ、アレフが救いの手を差し伸べる。
「ここから駅まで簡単に行ける秘密の方法があるんだ。十一時に戻るから、連れて行ってあげるよ」
僕は宿のテラス席に残り、彼を待つことにした。しかし、これが第二の悲劇の幕開けであることに、当時の僕はまだ気づいていなかった。

十一時。アレフは現れない。
一人、また一人と仲間たちが自分の旅路へと消えていき、三十分後、テラスには僕だけが取り残された。そこへ、見知らぬ新客たちが次々とチェックインしてくる。ついさっきまで主役面をしていた僕は、今や「チェックアウトしたのに居座り続ける不審な残留物」へと成り下がっていた。
十二時を回った。僕は宿のスタッフに尋ねた。
「アレフが『駅まで簡単に行ける方法』があると言っていたのですが、何かバスでも出ているのですか」
「タクシーか徒歩しかないよ」
うん、そうですよね。薄々、いや、八割型気付いておりましたよ。
浮かび上がる疑問は三つ。
なぜアレフは来ないのか。
スタッフすら知らぬ秘密の航路がこの都会に存在するのか。
そして、チェックアウト済みの僕が、フリーコーヒーを啜る権利はまだあるのか。
結局、再会したパーラに「あら、まだいたの」という、最も心に突き刺さる視線を浴びせられたところで、僕は悟った。
「アレフは来ない」
感動の別れから三時間。僕は結局、一切のショートカットも叶わぬまま、炎天下の道を歩いて駅へと向かった。一歩歩くたびに、脳裏には「アレフの言っていた秘密の方法」が、呪いのように浮かんでは消えた。
「秘密の方法。地下道か。あるいは、魔法の絨毯でも持っていたのか」

不吉な予感は、やがて形になって僕を襲った。
ペナン行きのバスを待つあいだ、僕は駅前の露店でバナナシェイクを買った。
目の前でミキサーにかけられたそれは、シェイクというより冷たい泥だった。ストローを吸っても、ペタッと管が潰れるだけで、一滴も上がってこない。
僕は決断した。蓋を外し、直接いく。
ベンチに座り、気合を入れて蓋をねじった瞬間、結露したカップが手をすり抜けた。
ドチャッ。
一滴も飲めず、濃厚な泥だけが地面に広がる。
僕は駅員からモップを借り、自分の不運を自分で拭く羽目になった。
さらに災難は続く。
その跡を踏み、派手にすっ転ぶ。怪我はない。だが、セブで買ったビーチサンダルの鼻緒が、あっさり千切れた。
サンダルを買いに行くためのサンダルがない。しかも時間もない。
荷物を背負い、片足を引きずりながら、僕は壊れたゴムの破片とともに、クアラルンプールを後にした。

画像

四時間のバス旅を経て、午後七時、ペナン島のジョージタウンに到着した。
船に乗ってみたかったからここに来たのに、バスだけで辿り着いてしまった。
バナナではなくマンゴージュースを買い、新しい黒のサンダルを装備。予約していた宿『トランスファー・ロッジ』へ、陽気なタクシードライバーの車で向かった。車内での災難話は、ドライバーに「マジか、気の毒だったな」と、笑いすら起きない同情を誘うほどに仕上がっていた。
真の地獄は宿の前にあった。
そこにあるはずの宿は、正面のシャッターがびっちりと閉ざされ、沈黙を守っていたのだ。
「営業していない。まさか宿代だけ吸い取られたのか」
僕は、その冷徹な鉄の壁を前にして、一人で軍事会議を始めた。
一、シャッターガンガン叩き作戦。
しかし、これは平穏な夜の街において、自らを「狂気的な侵入者」として喧伝するに等しい。紳士の矜持がそれを拒む。
二、ひたすら待つ作戦。
下手すれば異国の路上で野宿である。蚊の軍勢に蹂躙される未来が容易に想像できた。
三、近所の人に助けてもらう作戦。
藁をも掴む思いで隣のバイク屋に助けを求めたが、「またお前みたいなのが来たのか、どっか行け!」と、怒られる。近隣住民の慈悲はすでに枯渇していた。
四、違う宿に行く。
金銭的にも精神的にも、敗北感が強すぎる。

「ならば叩くしかないのだ」

画像

僕は、社会的な死か、物理的な野宿かの二択を迫られ、断腸の思いでシャッターに拳を振り下ろした。
夜のジョージタウンに、僕の叩く無機質な音が響き渡る。人の気配が無い。無人の建物に願いを託しているのかもしれないという思考が、よりこの絶望を増幅させる。

一時間。もはや感情が飽和し、自分の腕が機械的なピストン運動を繰り返すだけの肉塊に感じられたその時、二階の電気がついた。
僕は、目を見開いた。九回裏二死満塁で逆転を信じる応援団のごとき執念で叩き続けた。
「どうした」
現れたのは、上半身裸のイギリス人男性だった。その肌は上気し、背後には同じく乱れた装いの女性。どう見ても最高潮の最中であったことが容易に推察された。僕は心の中で、「尊い営みの時間を、不快な騒音で粉砕してしまい、万死に値する」と、深々と平伏した。しかし、彼らは怒るどころか、この愚かな放浪者を哀れみ、シャッターを開けてくれたのである。

画像

そこにいた宿のスタッフは、シンガポールで会ったホンコンに生き写しの男だった。しかし、致命的な違いが一つ。彼は英語を解さなかった。その存在すら知らないような顔をしていた。
「I have a booking(予約してます)」
「んんん」
「ステイ、スリープ、今日、僕、ステイ」
「んんん」
バックパックを背負った男が夜の二十一時にシャッターを叩いて現れたのだ。宿泊以外に何の用があるというのか。結局、九十九パーセントのジェスチャーを駆使し、なんとかベッドへと辿り着いた。
翌朝判明したのだが、そのホンコン似の男はただの留守番係で、夜十九時には寝てしまうため、勝手にシャッターを閉めていただけだったらしい。
待たされ、こぼし、転び、壊れ、拒絶される。
ようやく横になったベッドの上で、僕は深い溜息を吐いた。
「ほっとしたが、バックパッカーって、こんなにつらいものなのか」
ペナン島初日は、世界遺産の美しさよりも、旅とバナナの濃厚さを骨身に刻む一日となった。

スポンサーリンク

パーラの石

画像

世界遺産という名の巨大な迷宮に足を踏み入れた僕のポケットには、分不相応な重みが鎮座していた。クアラルンプールで、聖母のような慈愛を湛えたパーラが「お守り」として託してくれた、あの謎の石である。
「これを持っていれば、幸運があなたを導くわ」
彼女の涙に偽りはなかったはずだ。しかし、この石を手にした瞬間から、現れない人間を長々と待ち続け、バナナシェイクは泥と化して地を汚し、愛用のサンダルは断末魔の悲鳴とともに千切れ、あまつさえ予約した宿のシャッターすら僕を拒絶した。この石は「魔除け」でもなければ「幸運の導き手」などではない。持ち主の平穏を糧に不運を増殖させる、呪いの礫ではないのか。
朝、宿泊客が僕一人という、静寂を通り越して墓標のような二十四人ドミトリーで目を覚ました時、ポケットの中の石は、前夜よりも確実にその質量を増していた。僕は、二十四人分の孤独を背負って、その呪具を握りしめ、部屋を出た。

一階のカフェで、スタッフのおばちゃんが愛想よく笑う。
「おはよう、コーヒー飲むかい」
「モーニングコーヒーか。有難く頂戴します」
僕は、この一杯で運気が好転することを願った。しかし、提供されたラテに対して突きつけられたのは五リンギットの請求。
「油断した」
マラッカ、クアラルンプールで無料で飲んでいたコーヒーだが、その概念がこの宿にはなかった。
「やはり、石のせいか」
僕は、裏切られた期待の代わりに、胃に重たいサンドイッチを詰め込んだ。壁一面に広がる旅人たちのメッセージは、今や僕を嘲笑う呪文の羅列に見える。おばちゃんに渡されたペンで、僕は「拙き旅人、流れ着き候」と、書き残し、ストリートアート探しという名の修行へ向かった。

画像

ジョージタウンの壁面には、無数の物語が張り付いている。窓や自転車などの実物のまわりに絵が描かれている。
椅子が埋め込まれた混合型アート。僕はその「触れてはならぬ聖域」に指を伸ばした。
「椅子は本物だよな」
一瞬。ほんの一瞬、その質感を確かめようとしただけだった。しかし、その刹那、ポケットの石が熱を帯びた。
「ノーノーノーノー」
地元の子供が、まるでテロリストでも見つけたかのような悲鳴を上げ、近所のオヤジを召還した。激しい叱責。周囲の観光客の冷ややかな視線。僕は、世界遺産の中心で、ただの行儀の悪い男へと転落した。
さらに、アートを探すあまり迷い込んだ区域では、警棒を振りかざした警備員が突進してきた。脱兎のごとく逃走した。走るたびに、ポケットの石が太ももを強打する。それはまるで、「お前はどこへも行けない」と告げる足枷のようだった。

画像

そして、運命の審判が下る。
路地裏で「平成のクレオパトラ」と呼ぶに相応しい美女に遭遇した。イギリス人とのことだが、どうも極東の血が混じっているエキゾチックな構造の顔に好感を覚えた。
彼女もアートを探していた。
「ねえ、わたし、これ探してるの」
冊子を手に椅子のアートを指差すクレオパトラ。
僕は、彼女を案内し、ハイタッチを交わし、勝手に二人の間に運命の連帯が生まれたと錯覚した。
しかし、僕が「次はあっちですよ」と、さもパートナー然とした顔で声をかけた瞬間、彼女は顔を曇らせた。
「あ、うん。わたしは、こっちから行くね」
石が重い。あまりに重い。彼女が去った後の路地には、熱帯の湿気と、僕の粉砕された自尊心の破片だけが残された。

パーラよ、これが君の言う幸運なのか。それとも、僕という男の業が、この石を通じて具現化しているだけなのか。
心が、剥がれかけた壁画のペンキのようにボロボロになった頃、僕は三十四個目のアートの前に立っていた。
それは、何かに怯え、どこかへ逃げ去ろうとする少年の姿を描いたものだった。あるいは、猛暑の中で立ち尽くす、疲れ果てた旅人の暗喩か。
「もう、いいだろう」
僕は直感した。この三十四番目の少年は、僕自身だ。これ以上進めば、僕はジョージタウンの壁の一部として塗り込められ、永遠に不運を展示し続ける剥製にされてしまう。
「ここで、終わらせる」
これは敗北ではない。不運の連鎖を断ち切るための、賢明なる「セルフドクターストップ」である。僕は、残りの二十六個のアートを迷宮の闇に置き去りにし、呪いの石をポケットの奥深くに封印して、逃げるように宿へと戻った。
ベッドに倒れ込み、僕は天井を見つめる。ほっとした安堵感の裏側で、僕はかつて夢見た「優雅な旅路」との絶望的な乖離に、眩暈がした。

群馬の神

シャワーで街の埃と敗北感をざっと洗い流し、一階のカフェに降りると、おばちゃんが笑顔で盆を差し出してきた。
「ランチ、どうぞ」
「これはこれは。かたじけない」
もちろん、金、取るんですよね。おばちゃん。
頼んでいないが、断れない。
この宿には、もう僕しかいない。つまり、僕が食べるしかないのである。
「アート探しはどうだった」
「しんどかったですよ。ええ、死ぬほどに」
「チャリ、使えばよかったのに」
その一言で、世界が止まった。
チャリ。
その二文字が、今さら僕の頭上に落下してきた。
いや待て、それは昨日の時点で投下可能だったのではないか。なぜ今なのか。なぜ僕がすべてを終え、疲労と軽い人格の崩壊を経たこのタイミングなのか。
先に言ってくれれば、僕はあの路地をさまようこともなく、クレオパトラに冷笑されることもなく、風を切って逃げていたはずではないか。
おばちゃんは、いつも通りの顔で「にひひ」と笑っている。
悪気はない。むしろ「いいこと教えた」くらいの顔である。その顔が妙に愛嬌に満ちていて、こちらとしても本気で責める気にはなれない。
これは、おばちゃんの問題ではない。
旅というものが、そういう構造をしているだけだ。
僕は静かにランチ代を渡した。

「あんたが出かけてすぐ、日本人の男がチェックインしたよ」
その噂をすれば、入り口から一人の男が風のように現れた。
「ふう、あっちい。あっ、こんにちは。シンくんだよね」
群馬出身の男だった。僕より一歳年上。しかし、その佇まいは、数多の修羅場を潜り抜けた賢者のそれである。

画像

基本は上半身裸。髪型は重力に抗う独創的なフォルム。そして何より目を引くのは、首に装着された巨大な数珠のような物体だった。
「その首のやつ、どうしたんですか」
「タイで買ったんだよね。なんか、神様っぽくない」
普段なら間違いなく「ダサさの極み」として鼻で笑っていたはずだ。しかし、どうしたことか。その数珠は、まるで彼という小宇宙を完成させるためのラストピースであるかのように、異様な説得力を持って馴染んでいた。
僕は、目の前に降臨した「群馬の神」の後光に、思わず目を細めた。

神は、観光の本質について説法を始めた。
ペナン最大の極楽寺に行こうとしない僕に、神は静かに問いかける。
「なんでバックパッカーはアジアの寺なんか見に行くんだと思う」
「SNSですかね」
「その通り」
神は、首の数珠を揺らしながら続けた。
「有名だから、綺麗だから。そんな冷やかしのような理由で行くなら、行かないほうがマシだ。でも、少しだけ背景を調べてごらん。そうすれば、景色は一変する。旅行は、もっと楽しくなるはずだよ」
なんという神発言。僕は己の無知と、ただ「暑いから」という理由で三十四枚目のアートで逃げ出した根性のなさを恥じた。

「グンマさんは、お寺に興味があるのですか」
「全然。あんなの全部一緒じゃん。行く意味ねぇよ」
いい。かなり。僕は、そのあまりにも見事な手のひら返しに、なぜか安心した。
この人は信用できる。少なくとも、話に一貫性がないという意味で。

僕とグンマさんは、二人でペナンの海を目指した。
しかし、そこに広がっていたのは、僕の人生で見た中でも最低レベルの「汚ビーチ」だった。神ですら浄化を諦めるような濁った波。僕たちは何も言わず、回れ右をした。
だが、その帰りに食べたナシゴレンは、驚くほどに美味かった。
ペナンの壁画は僕を裏切ったが、ペナンの米は裏切らなかった。
保健所が飛び付きそうなほど汚い屋台で食べたカヤ・トーストも、僕たちには十分すぎるご馳走だった。

「拾っちゃったね、シンくん」
どういう意味だ。
「海はハズレ。でもこれ当たりでしょ」
トーストの皿を返却しながら彼はそう言った。
たしかに、うまい。さっきまでの濁った海が、どうでもよくなるくらいには。
「そういうこと」
それ以上、説明はなかった。
変な人だ。僕と違い、内側で完成されている。

神は、旅の途中でスマホを盗まれ、新しく買ったそれを一日に何度も失くすという、ある意味で極めて一貫性のある生活を送っていた。
人はここまで来ると、もはや失うことに対して特別な感情を抱かなくなるのかもしれない。あるいは、最初から何も持っていないのと同じ状態に到達しているのかもしれない。そのへんはよくわからないが、とにかく彼は平然としていた。

楽しい時間というものは、この国のスコールと似ている。
来たと思ったらすぐ終わるし、終わったあとに何かが洗い流されたのかどうかも、いまいち判然としない。

神は、タイのどこかの島へ向かうという。
本当なら、最後まで付き従いたかった。だが、僕にはバンコクでの約束があった。

「ありがとう、グンマさん。きっとまた会いましょう」

ユーラシア大陸で初めて出会った同胞だった。
彼は後に、群馬で畑を耕し、本物の大地の神になるのだが、このときの僕にはまだ、その未来は見えていない。
ただ、彼の言葉だけが残っていた。
「知ること。興味を持つこと」
それが、不運を書き換えるための、唯一の呪文のように思えた。

僕は、マレーシアでの出会いと別れを胸に、フェリーに乗り込んだ。対岸の町、バターワースへ。そして、混沌の王都、バンコクへ。
フェリーの振動の中で、僕は、少しだけ旅というものに近づいた気がしていた。
だが、まだ気づいていない。
ポケットの奥で、パーマの石が、静かに重みを増していることに。