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ぼんやりとした規律

バスがジョホール水道を渡る巨大な橋に差し掛かった時、僕の視界には四カ国目、マレーシアの景色が飛び込んできた。
人生初の、陸路での国境越え。
シンガポールからバスに乗り、入国審査で一度降ろされる。その間にバスはあちら側に移動し、「ラーキンセントラル」まで行くという流れだった。
「同じバスだから荷物はそのままで。さあ行った行った」
出入国を管理するビルの前で運転手はそう言ったが、極めてなんとなくという理由から僕は荷物を背負ってバスを降りた。
だが、その判断は結果的に正しかった。

僕はこの場で、よりにもよってやってしまった。
世の中には「絶対に笑ってはいけない場所」があるが、ここはまさにそれだ。国家の威信が交差するイミグレーションの最前線で、僕は不謹慎という名の着火剤に火をつけてしまったのだ。
国境。そこは、不法入国や危険物の流入を阻止する、国家の門番たちが集う聖域のはずである。
しかし、入り口の赤外線モニターの前に鎮座する職員は、あろうことかスマホで動画を凝視し、肩を揺らして大笑いしていた。モニターに映し出される入国者たちの体温など、彼にとってはスマートフォンの液晶から溢れ出る娯楽の熱量に比べれば、塵芥に等しいのだろう。

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「仕事をしろよ」
正義感ではない。これは、あまりにも純度の高い隙を発見してしまった人間観察者としての、抑えきれない歓喜である。僕は無意識のうちに日本モデルのiPhoneを構えていた。
ガシャ。
静寂を切り裂く、あまりにも無慈悲なシャッター音。そこからは、まさに「えらいこっちゃ」の狂想曲だった。
「おい、貴様、撮ったな」
動画を見ていたはずの警備員が、火のついた導火線のような勢いで突進してくる。僕のバックパックを鷲掴みにした彼は、顔面を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「ここはイミグレーションだぞ。写真撮影は厳禁だコラァ」
「やっちまった」
僕は「今、自分はどちらの国の法律に守られているのか」すら定かではない、不気味な別室へと連行された。

別室には、威圧感を絵に描いたような署長らしき男と、数人の係官が待ち構えていた。
「なぜ撮った」
署長の問いに、僕は正直に、かつ文学的な嫌がらせを込めて答えた。
「このイミグレーションとかいう、なんかこう、国家の顔だか何だか存じませぬが、とにかく大事そうな場所で、彼は職務という現実から軽やかに逸脱し、ひとり享楽の映像世界へと沈潜しておられました。いや笑いすぎでしょというくらい笑っておられた。その間にも人はどんどん通っていく。赤外線、ですか。そういうのを通っていく。けれども彼は知らん顔で、ただ笑っておられる。春の湖面にほどける光のように。で、これは一興、ちょっと極東の友に見せねばならぬな、と思っただけなんです。本当に。ですが怒られたので、はい、消しました。今、完全に。ええ」

そこからの展開は、僕の予想を斜め上に追い越していった。
僕という罪人の存在は霧散し、矛先は一転して、僕を捕らえた警備員へと向かった。
「てめえ、勤務中に動画を見ていたのか。何系の動画だ」
署長の目が、冷徹な刃となって警備員を貫く。
「い、いえ、ちゃんと仕事してました。署長、信じてください。この目を見てください」
「だが、この日本人は『仕事をしていないのが面白くて撮った』と言っているぞ」
「いやいや、いやいやいやいや」
もはや僕の処遇など、誰も気にしていない。密室の中で繰り広げられるのは、一人の警備員の勤務態度を巡る泥沼の押し問答である。
「あの、僕はもう行っていいですか」
僕の控えめな提案に、署長は「ああ、もう二度と撮るなよ」と、事務的に手を振った。

解放された僕を待っていたのは、無情にももぬけの殻となった駐車場だった。
拘束されていた二十分の間に、乗ってきたバスは僕を置き去りにしていたのだ。
二日酔い、空腹、脱水症状。そして見知らぬ国境で、移動手段を喪失。
「終わった」
だが不幸中の幸い、なんとなく持って降りたバックパックを、ぎゅっと握りしめ、「あっぶねぇ」と肩を撫で下ろした。もっとも、その「なんとなく」に救われる状況を作ったのは、全部自分なのだが。

僕はとりあえず、近くの売店でパンと水を買い、貪り食った。まだシンガポールドルが使えたのが、唯一の救いだった。
そこへ一人の男が近づいてきた。
「ラーキンか」
「はい、そうですけど」
僕は、すでに有効期限の切れた、というか、もう行ってしまったバスのチケットを、新人手品師のような手つきでチラ見せした。
「よし、もう出るから、パンを食ったら乗れ」
男は確認もせず、僕を別のバスへと促した。
確認不足。怠慢。そして、いい加減さ。
つい先ほど僕を窮地に陥れた「アジア的緩さ」が、今度は僕の命を救うという、皮肉な逆転劇。僕は心の中で、二度とイミグレーションでは調子に乗らないと、血の涙とともに誓った。

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到着したラーキン・バスターミナルは、ムスリムの女性たちが纏う布(ヒジャブ)で溢れていた。
マレーシアは、国民の六割がイスラム教徒。肌や髪を隠すのが教義のはずだが、僕の目に映る彼女たちは、驚くほど奔放だった。
布の間から髪がはみ出し、肌が覗き、あろうことか隠しきれない「可愛さ」までもが漏れ出している。
「宗教のルールは、この熱帯の湿気に溶けてしまったのか」
酒と豚肉がタブーとされるこの国で、彼女たちのその緩やかさは、僕にとって一筋の希望のように見えた。

ラーキンからマラッカ行きのバスに乗り込んだ僕は、そのあまりの快適さに愕然とした。
ふかふかの広い座席。絶妙な温度設定のエアコン。そして、文明の利器「Wi-Fi」と「コンセント」。
「なんだこれは。ここに住めてしまうではないか」
フィリピンでの、あのケツが割れるような振動と砂埃にまみれた移動は、一体何だったのか。
僕は、インターネットという名の命綱を掴んだ瞬間に、マラッカの宿の予約を済ませた。これだけなのだ。これだけで宿探しという奔走をする手間を省けるのである。
バックパッカーにとっての自由とは、時に「無計画という名の地獄」を意味する。僕はフィリピンでの手痛い教訓を経て、文明の恩恵を享受する賢明な堕落者へと変貌を遂げていた。

バスは、パームツリーが織り成す壮大なジャングルの一本道を、滑るように爆走する。
ネットに飽きた僕は、結局、紙の日記帳を開き、そこに救いようのないアホな妄想を書き殴り始めた。アナログ人間の僕にとって、このふかふかの椅子の上で綴る無意味な時間こそが、シンガポールで失った焼飯の穴を埋める、唯一の贅沢だった。
僕は今、パーム油の匂いと、ぼんやりとした規律が支配するマレーシアの懐へと、静かに沈み込んでいく。

マラッカの恵みの雨

マラッカ、世界遺産を冠する古都である。僕は快適極まるバスの無線網を駆使し、意気揚々とその地へ降り立った。発着所から徒歩十分、迷うことなく辿り着いたその宿の二階、受付の扉を開けた瞬間、僕は悟った。
こいつ、まともな精神の持ち主ではない。そこにいたのは、前歯を一本紛失していて、常にモチャモチャと口を鳴らす男だった。ニヤニヤした笑い方が目に付いた。会ってすぐに人に不快感を与える、救いようのない親父だった。

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「ゲヘヘ。お前はスケベそうな面をしているから、八号室だ。これを持っていけ」
親父は、使い古された下品な笑みを湛え、僕に鍵を突き出した。
「どういう意味だ」同類にされて心外である。
「実はな、その部屋は四人ドミトリーだが、今は韓国人の女の子が一人だけだ。二十五歳、絶世の美女。おまけに外国人の彼氏を欲しがっている。今夜はもう予約がないから、お前とその子、二人きりだ。俺に感謝しろ。ゲヘヘ」
僕は、心の中で鼻で笑った。僕を誰だと思っている。二十六歳のバックパッカー紳士だぞ。そんな安い挑発に乗るとでも思ったか。なんて下品な親父なんだ。
「それがどうした。女性がいる部屋に男を入れるなんて、その人は怖がるんじゃないのか」
「ゲヘヘ。じゃあ部屋を変えるか。バングラデシュの汚え親父と二人きりの部屋があるが」
「結構だ。八号室で問題ない」
僕は、紳士としての矜持を保ちつつ、あるいは胃の腑の底に沈殿した微かな期待を攪拌しながら、その鍵を受け取った。

部屋へと続く廊下を歩く僕の胸中は、初恋前夜の中学生のそれだった。理性という名の冷徹な重石で卑俗な欲望の蓋を押さえつけてはいるものの、その隙間からは「絶世の美女」という芳醇な毒素が漏れ出し、僕の脆弱な脳髄を心地よく麻痺させていた。
宿主の親父、言動こそ卑猥だが、案外、味な真似をしやがる。運命の女神が僕に微笑んでいるのか。
いや、いかん。僕はあくまで紳士として、異国の地で心細い思いをしているであろうご婦人に、一片の無礼もないよう努める所存である。
もし彼女が僕を求めたとしても、僕はまず、法と倫理の道を説く聖人君子であるべきではないか。

震える指先で鍵を回す。扉の向こうには、淡い月光に照らされた可憐な妖精が、困り顔で僕を見上げる姿があるはずだ。僕はその一刹那に、世界で最も洗練された「ハロー」を放つ準備を整えた。
しかし、扉を開けた瞬間、僕の「紳士」という安物のメッキは、凄まじい物理的質量を伴った残酷な現実によって、微塵も残さず粉砕された。

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「ハロー」
「ハイ、ハウアーユー。アイム・ウニ、フロム・コリア」
ウニ、三十二歳。公称二十五歳という詐称も、美女という虚飾も、その圧倒的な「質量」を前にしては、道端に落ちた蝉の抜け殻のように無意味だった。
推定百キロ。彼女が身じろぎするたびに、安物のベッドが地獄の底から響くような悲鳴を上げ、僕の心拍は期待から生命の危機へと、その質を劇的に変えた。
顔面は、さながら怒りに狂ったカバに化粧を施したような、威圧的な造作である。そして鼻の下には、産毛などという生易しいものではない、意思の強そうな黒々とした毛が、口髭としての領土を堂々と主張していた。さらに、彼女の存在一つで、三年間一度も洗っていない剣道部の防具袋のような、発酵した絶望の臭いがこの八号室に充満していた。
「マラッカは初めてなのね。今夜ナイトマーケットへ案内するわ」
普段の僕なら、断るだろう。だが、ウニの衝撃によるパニックで、聖人君子モードを即座に解除できていない僕は、「いいですね、助かります」と即答してしまった。
先ほどまで脳内を占拠していた「洗練された紳士」は、今や泡を吹いて卒倒し、ただの震える小動物がそこに残された。

それでも僕は、残った理性の破片をかき集め、失望を顔に出さぬよう努めた。自分を納得させようと荷物を解き、まずはシャワー室へと逃げ込んだ。
ここで僕は、一つ余計なことをした。シンガポールでの数日間、僕はヒゲを伸ばしっぱなしにしていたのだが、それが原因で不審者扱いされるなど、旅の効率を著しく下げていた。そこで僕は、なんとなく髭をつるつるに剃り上げたのだ。
シャワーを終え、サッパリとした顔で部屋に戻ると、そこには夜の戦場へ向かう装備を整えたウニがいた。鼻を突く酸っぱい香水の香りと、防具袋の異臭が複雑に絡み合い、部屋の酸素濃度を著しく下げている。
およそ旅人とは思えない、ガーリーな衣類を纏い、その襟には値札がまだ付いていた。
彼女は僕の顔を見るなり、「今夜きめてやる」とでもいうような、獲物を追い詰めた猟師のような嬉しそうな顔をした。
「まずいことになった」
僕がつるつるに剃った顎は、彼女の目には「気合の入った準備」として映ってしまったのだ。
僕はこの手の誤解を解く訓練を積んでいない。
桃色のワンピースに身を包んだ百キロの巨躯に伴われ、夜の街へ連行されたのである。

歩き出して一分、彼女は躊躇なく僕の手を力強く握ってきた。
「この女、慣れている」
さらに細道で自動二輪が通り過ぎた瞬間、「きゃっ」という嬌声とともに、彼女は自身のスイカ泥棒と見紛う巨大な胸を、僕の腕にめり込ませてきた。僕はあまりの圧力に、情けなくも「ひぃっ」と短い悲鳴を漏らし、膝をガクガクと震わせた。これはもはや誘惑ではない、捕食だ。
食事の席においても、彼女の猛攻は止まらない。目の前の食べ物が何であるかなど、もはやどうでもいい。食べ物を咀嚼するたびに、グチャ、ズリュという音とともに、獣のような熱気が押し寄せる。
僕は心の中で、ひたすら「スコールよ、来たれ」と、祈るしかなかった。
「私の好きなタイプはね、年下で、長髪で、無頼で、痩せてて、自由に生きてる人」
それ、ほとんど僕のことじゃないか。どう見ても標的だ。六つ年上のウニさんに狙い撃たれている。
「あなたはどういう人が好きなの」
正面からの直球。
まず年上は二つまでだ。痩せていて、可愛い日本人がいい、などと言えば彼女を傷つけてしまう。
僕にできるのは、ただガタガタと震えながら、空になったコップを凝視することだけだった。
その時、事態は一変した。祈りが通じたか、突然の超特大のスコールが夜市を包み込んだ。水害を予感させる土砂降りで、店は一斉撤去。僕たちはびしょ濡れになりながら宿へ猛走した。
困った質問を避け、予想より遥かに早く逢瀬を切り上げることができた。マラッカの恵みの雨だ。

宿に戻り着替えを済ませると、ウニは湯上がりらしく、露出の激しい姿で部屋へ戻ってきた。すでにクロージングの段階に入っている。
視線を逸らす僕のぎこちなさは、「恥ずかしがり屋さんめ」と解釈されている気配がある。まずい。
「あっそうそう」
と天井に話しかけながら、僕はそのまま部屋を脱出した。共有広間に避難する。案の定、彼女も来たが、幸い人がいた。

彼らは各々の旅の目的について熱く語り合っている。
話に乗るようにウニは言った。
「わたしは、やりたいと思ったことは絶対やるの。即行動よ。お金や時間を理由に諦めたくないからね」
いいことを言う。確かに旅は、そういう精神から生まれる。
僕のような無鉄砲とは違うのだろうが、紙一重ではある。

だが、その「やりたい」の中身を想像すると、体が震えた。
その後、彼女は長椅子で寝入ってしまった。
僕は心から感謝した。
この街には、スコールだけでなく、
睡魔という救済もあるらしい。

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酸味に支配された一日

生存の喜びを噛み締めながら目を覚ました。時計の針は午前七時。共有広間を覗けば、昨夜そこで腹を出し、あられもない姿で野垂れ死んだトドのように転がっていたウニが、いつの間にか自室へと帰還している。
僕は、彼女が覚醒する前に、脱出することを決意した。しかし、二段ベッドの下段から這い出した僕の視界に、不穏な影が飛び込んできた。上段に、見知らぬ男が横たわっている。見たところ、二十歳くらいの韓国人だ。
いつの間に。昨夜零時に僕が潜り込んでから、わずか七時間の空白に、音もなく増殖していたのだ。バックパッカーの宿とは、時として斯様に、就寝中の無防備な頭上に新たな人類が降ってくる怪奇現象が日常である。
僕は、この「気配のない増築」に微かな戦慄を覚えつつ、そっと部屋を後にした。

この宿は、無料朝食付きという、慎ましい旅人にとっては涙が出るほど有難い優良ホステルである。パンとコーヒー、そしてフルーツ。僕はこれらを、失われた生命力を補完する儀式のように貪り食った。
しかし、問題はコーヒーであった。一口含んだ瞬間、僕の脳内には「アセロラジュース」という単語が点滅した。
コーヒー特有の苦味や深みなど、そこには一切存在しなかった。舌がその浅煎りの酸味を「それじゃない」と否定する。その果実としての正解を理解するには、僕はあまりに幼稚な味覚の持ち主であった。
「黒くて苦いコーヒーを探さねば、僕の朝が酸味に塗りつぶされる」
僕は独り、マラッカの街へと飛び出した。

マラッカの街角には、トライショーと呼ばれる人力車が跋扈している。赤、ピンク、黄色。およそ正気とは思えない彩度のファンシーカラーでデコレーションされたそれらは、さながら移動式の電飾仏壇である。
そして、その運転手たちの学習能力の欠如は、世界遺産の景観を損なうレベルで深刻であった。

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「トライショー、トライショー」
僕の前に立ち塞がったのは、その体格でどうやって客を運ぶつもりなのかと問い詰めたくなるほど、過剰に膨張した男だった。
「一人で早朝から、こんな派手なものに乗る罰ゲームを受けるつもりはない」
「オーケー、オーケー」
何がオーケーなのか。彼は僕が日本人であると知るや、さらに熱心に「トライショー」と連呼する。僕は彼に、この時間に開いている苦いコーヒーを飲める場所はないかと尋ねたが、彼の返答は「トライショー」だった。
人は時に、会話を拒絶し、単一の単語のみで宇宙を構成しようとする。僕は彼を背にして歩き出した。

軍艦のようなトライショーの包囲網を抜けると、何かで見た記憶のある、ピンク色の教会を中心とした広場が広がっていた。
その一角に、一軒だけ不自然なほどの光彩を放つ、オシャレなカフェがオープンしていた。一杯十二リンギット。三百六十円。マレーシアの物価からすれば、日本と何ら変わらぬ強気のオシャレ価格である。
「参ったな。朝から優雅に、オシャレカフェでブラックコーヒー。僕は完全に、洗練されたオシャレバックパッカーである」
そんな、自らの存在を粉飾決算するような自画自賛を胸に、一口飲み込んだ。
「アセロラかな」
デジャヴである。そこには、宿のコーヒーをさらに高級な機材で抽出したような、より酸味の効いたコーヒーが待ち構えていた。砂糖とミルクを大量に投下しても、その酸味は「僕という存在を拒絶する」という強い意思を曲げなかった。僕は、コーヒーという名の果実ジュースを飲み干し、悄然と宿へ戻ったのである。

宿へ戻ると、さらなる酸味がそこで待ち受けていた。
八号室には、朝の増殖に加え、もう一名、五十代ほどの韓国人の男が加わっていた。
部屋の扉を開けた瞬間、僕を襲ったのは、暴力的なまでの「発酵臭」である。
「すっぺえ」
その年配の男は、どこから調達したのか、巨大なタッパーに山盛りのキムチを詰め込むという、極めてプライベートかつ公害に近い作業に没頭していた。

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においがきつい。
いや、もはやにおいという生易しい概念ではない。それは、密閉された空間における化学兵器に近い。ウニと若い韓国人男子は「いい香りだ」と言わんばかりの表情で慈しんでいるが、僕の鼻腔は完全に機能停止に陥った。

僕は意を決し、フロントの変態親父に部屋の移動を申し出た。
「部屋がキムチ臭くて死にそうです。静かに移動させてください」
しかし、親父は僕の「静かに」という配慮を無視した。

彼は八号室へ突進し、部屋中に響き渡る声で「うわ、これはすっぱい。おい、酷いにおいだぞ、やめろ」とビシッと言い放ってしまったのだ。
「ビシッと言ってどうするのだ」
僕が望んだのは平穏な撤退であり、国際問題への発展ではない。
案の定、親父が去った後の部屋は、氷点下の緊張感に包まれていた。キムチ男はピリピリとした殺気を放ち、若い男子を通訳として使い、僕を糾弾し始めた。
「フロントに何を言った。どういう言い方だ。お前は右か左か。ドクトを語ろうじゃないか。お前は桜の起源を知っているのか」
キムチのにおいが、歴史認識問題へと飛躍した瞬間であった。
「もうたくさんだ。僕は、マラッカを出る」
僕は、キムチの悪臭と、出口の見えない論戦から逃れるため、当初の予定を切り捨ててマラッカ脱出を決意したのである。

急遽決まった旅立ちに向け、僕はせめて最後にと、マラッカ観光を駆け足で済ませた。サンチャゴ砦、ザビエル像。確かに素晴らしいが、マラッカ観光は、半日あれば十分だった。
僕が最後に期待したのは、『深夜特急』でも描かれた、世界三大夕日スポットの一つとされるマラッカのサンセットだった。しかし、空は僕を祝福しなかった。昨夜同様、いや、昨日以上におぞましい重低音を響かせる黒雲が、空を完全に閉ざしていた。
結局、太陽は一度も顔を見せず、マラッカの空はただ真っ暗になった。
僕は夜、屋台で知り合った見知らぬ地元の親父と、正体不明のカレーをかき込み、クアラルンプールへの行き方を聞き出した。
翌朝、僕はキムチの残り香が染みついたバックパックを背負い、宿を後にした。期待した美女との一夜は百キロの重圧に変わり、憧れた夕日は暗雲に消え、僕の手元には「酸っぱいコーヒー」の記憶だけが残った。
いつもこうだ。しかし、マニラで笑ったあの日から、それでいいと思うようにしている。
クアラルンプールへ向かう。そこには、また別の、しかし同様に予測のつかない何かが待っているはずだ。