旅人失格 第六章 導かれ、削られ、巻き込まれて、揺さぶられる
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導かれる
僕は大繁盛を極める満席のカフェで、壁に肉体を預けたままアイスコーヒーを啜っていた。冷房は効きすぎていて、汗ばんだ皮膚が一気に引き締まる。氷の溶ける音と、台湾語の早口が、店内で絶えずぶつかり合っていた。
「これからどうしようか。とりあえず、今夜の寝床を確保せねば」
本来ならば、てるてる夫妻との会合で地下鉄の乗り方や宿の選定、台北各エリアの地政学的特徴などを聞き出す算段だった。しかし、バギオの追憶と小籠包の官能に溺れるあまり、何ひとつ核心に触れないまま離別してしまったのだ。
出国して二ヶ月、僕は語学学校の寮という揺り籠に守られていたため、「宿探し」という実戦を一度も経験していない。
「今こそ、重しとして持ち歩いたマックブックを起動する時だ」
意気揚々と電源を求めてコーヒーショップへ入店したものの、空席など微塵もない。別の店へ移動すればよいのだが、すでにLサイズのアイスコーヒーを購入してしまった以上、僕は一歩も動けない。コーヒーを掴む前に座席を制圧すべきであったという、猿以下の知能を呪うほかなかった。
冷房に救われたという一点のみを、この無意味な滞在の免罪符とする。
すると、目の前の席でナナフシのように細長い男が、僕に座を譲った。

「さては、日本人だね。その風貌はバックパッカーとみた。電源もお使いなさい」
「え、かたじけない」
ナナフシは観光業に従事しているらしく、獲物を見つけた爬虫類のような目で僕を凝視した。
「ひとつ聞いていいかな。いつ来た? どこから来た? 目的は? どれくらい滞在する?」
「四つ聞いているではないか」
僕は、怪しげな施設での一泊や、今後の宿なしの窮状を簡潔に供述した。ナナフシは取材者さながらの執拗さで質問を連射してきたが、僕は「三問につき一回答」という、高等な『空気読め作戦』を展開した。
それを察知した賢明なナナフシは「オーケイ」と呟き、ものの三十秒で『あかり』という日本人宿の頁を提示したのである。
「日本人宿。そんな楽園が存在するのか」
ナナフシは親切にも電話をかけ、瞬く間に予約を完了させた。
「ここは有名だからね。値段も妥当なはずだ」
救世主との遭遇に、僕は己の強運を確信した。すぐにでも出撃したかったが、ナナフシの取材欲は底を突かず、最後には数枚の写真を撮られた。
「中国と台湾の関係についてどう思う?」
「それを、宿無しの日本人放浪者に聞いてどうするのだ」
彼は満足してように、また、自分の役割を終えたように笑顔で席を立った。
ナナフシに地下鉄の作法を教わり、『中山駅』に到達した。しかし、宿は見当たらない。細い路地に入ると古びた看板が折り重なるように突き出している。どの道も似た顔をしていて、現在地という概念が溶けていく。
八百屋の親父に宿の画面を見せていると、そこへ親父の息子と思わしき小一ほどの少年と、その一党、合計五人のわんぱくキッズが強襲してきた。
「あー。わーわー。あいやいやいや」
体力無限の育ち盛りどもは、薄汚いロン毛の不審者を珍獣のごとく包囲した。
「よし、お前ら、この兄ちゃんを宿まで連れていってやれ」
親父の一喝で、僕はキッズたちに手を引かれ、拉致同然の案内を受けることになった。あの雑な優しさこそ、この街の正体なのかもしれない。

「バックパックを引っ張るな。尻を叩くな。むむ、それは犬の糞ではないか」
気づけば、空はオレンジ色に染まっていた。そして、なぜか僕は出発地点の中山駅に戻されており、キッズは消えていた。
何が起きた。歩きながら夢を見たのかも知れない。彼らにとって僕は、ただの暇つぶしの玩具でしかなかったのだろう。だがそれでいい。悪い気はしなかった。

再び宿の近辺を漂流していると、前方から真っ赤なリュックを背負った小柄な女性が歩いてきた。あちらも気づいたのか、こちらを見ている。すれ違う瞬間、寸分違わぬタイミングで「日本人ですか」とハモってしまった。
同じ民族であることを確認して安堵する。彼女も、日本人宿『あかり』を求めて彷徨っていた。
「さっきから探してるんやけど、見つからへんねん」
「僕もです」
「あんた、さっき子供らと歩いてたやろ。あれ、何なん」
「あれは、僕にもよく分かりません」
二人掛かりでようやく看板を発見し、僕らは無事にチェックインを果たした。男子ドミトリーが満席であったため、僕はシングルルームに収容された。

シャワーを浴び、廊下で遭遇した先程の女、ナンシーは、セックス・ピストルズを信奉するパンク女子だった。
きつめの関西弁を無表情で放つ彼女は、僕の部屋に無遠慮に侵入し、冷房の恩恵に預かった。
「うちはベースやねん。シドが好きやから」
「何ですと。僕も以前バンドやってまして、ベースでしたよ」
「ほんまに。何使ってたん」
「ワーウィックの、あの地面に吐いた痰のような形のやつです」
「あかんで。ベーシストはな、そうやってイキったらあかんねん。男らしくプレベがええわ」
共通項の多さに会話は過熱し、夜も出歩かずに語り続けた。少年のような短髪にノーメイク。ナンシーの持ち物には、男勝りな性格が凝縮されていた。
「シン、あんたのその大荷物、何なん。何がそんなに必要なん」
「自分でも、よく分かりません」
彼女の荷物は、僕の三分の一にも満たぬ軽快さだ。
「逆に、何が入っているのですか」
「見てみい。これだけや」
スカスカのバックパックから覗くのは、最低限の着替えと、不釣り合いなほど立派な木製の折りたたみ将棋盤だった。
「将棋盤こそ、旅行に必要ないではないか」
そう言いながら、将棋好きの僕は嬉々として盤を引っ張り出した。すると、盤の隙間に布状の何かが挟まっていた。

「ぎゃああ。なんじゃこりゃあ」
紛うことなきパンツだった。
まるで栞のように、下着が盤に挟撃されていたのだ。かつて、パンツを栞として活用した棋士がいただろうか。パンツの側も、まさか将棋盤に挟まれる運命を予測してはいなかったはずだ。

「ちょ、返してや」
顔を朱に染めたナンシーは、盤とパンツを奪還して自室へ逃げ帰った。
「何だったのだ、今の光景は」
不覚にも、僕は動悸を覚えた。パンツに興奮したのではない。鉄の意志を持つパンクな女が見せた、一瞬の乙女の羞恥。そのギャップに、僕はわずかにぐっときてしまったのである。一分後、扉を叩く音がした。心臓を跳ねさせながら開けると、そこには再びナンシーが立っていた。
「なぁ、好きなん」
え、パンツですか。布切れを好きかわざわざ聞きに来たのか。
「好きなんやろ、どや」
はぁ。もしや、貴女のことをですか。出会って約一時間、僕の心の準備が整っておりませんぞ。
あまりの急展開に慄きつつ「な、何がでしょう」と、問いの真意を確かめる。
「ほら、そこ片付けや。将棋やるで。好きなんやろ」
危うく勘違いの穴に身を投げ、致命的な恥辱を味わうところだった。
将棋には『桂の高跳び歩の餌食』という格言がある。調子に乗って前進し、後から間違いに気づいて憤死する。前方不注意な僕に、これほど相応しい言葉はない。
パチ。パチ。パチ。
「ほう。中飛車ですか。はやくも桂を上げる算段では。ふふふ」
「あんた、囲わんと、引き角ばっかりやからな。五筋が隙だらけやねん」
その夜、僕らは深夜二時まで、パチッという駒の音を異郷の空に響かせ続けたのである。
削られる
フィリピンを出てからというもの、僕の肉体は常に悲鳴を上げていた。足腰が限界を迎え、歩行という生物の基本動作すら苦行と化している。その元凶は、間違いなく重すぎる荷物だ。
十五キロの巨大な緑色のバックパックと、五キロの青色のサブバッグ。合計二十キロの質量は、僕の脊髄を容赦なく圧迫し続ける。バックパッカーを自称しながら、僕はバックパックを背負うことを、蛇蝎のごとく嫌悪していたのである。
「旅人ならば、荷物は少ないほうが格好いい」
昨晩、ナンシーの潔すぎる荷物を見た瞬間に、僕はその真理に到達した。
午前十時。ガチャリという無遠慮な音とともに、ナンシーが僕の部屋に侵入してきた。
「おはようさん。朝メシいこか」
関西の隠居した親父のような挨拶だ。床には、昨夜僕が「見直し」のためにぶちまけた荷物の残骸が、死体のように転がっている。洗剤の匂いが抜けきらない衣類と、フィリピンから連れてきた鈍い臭いが混ざり合い、部屋は生活感の濃い空気に満ちていた。
「うわ、なんなんこれ。チンポでも触ってたんか」
「そんな下卑た言葉を使うもんじゃないですよ」
洗面を済ませ、近くのカフェで軽い食事を摂った。有給休暇を謳歌する彼女と、ゴールのない無期限旅行者の僕。属性は違えど、彼女は僕の断捨離に全面的に協力すると息巻いている。
「あんたは台湾で予定あんのか」
「特になし」
「よっしゃ。ほな、荷物の仕分けやな。終わったら郵便局から日本に送る。夜はメシや。どや?」
一見すると強引だが、そこには迷いがない。僕は彼女の先導により、己の無知と虚栄心の塊である荷物の山と、正対することになった。
改めて眺めると、僕のバックパックは「不安」を物質化したような代物だった。

Tシャツ七枚に長袖シャツ二枚、セーター、靴下、チノパン、カーゴパンツ、デニム。さらに革靴にスニーカー、重厚なサンダル。本にいたっては、夏目漱石にウィリアム・ギブスン、果ては二〇一三年度版の『地球の歩き方 インド』までが鎮座している。
「ほぼいらんな」
「えええ」
「革靴なんて、ほんまに意味分からんわ」
「フィリピンで安かったから、つい」
「ビーサン壊れたら、その時買えばええねん。スニーカーも送れ」
ナンシーの宣告は冷徹だ。僕は長袖類をすべて排除し、今後は蚊の猛攻を覚悟して、短パンとビーチサンダルのみで生きていく決意を固めたのである。
本類もまた、僕の旅を重くしていた。二ヶ月間、一行も読んでいなかった小説類は宿の本棚に寄付し、英文法本だけは彼女の隙を突いてサッと隠した。
さらに驚くべきは、サブバッグの処遇だ。
「PCなんて、あんた使えてへんやろ。かっこつけてるだけや。送れ」
「仰る通りです」
タイピングも満足にできない僕にとって、マックブックは単なるアルミの塊に過ぎない。僕はそれをタオルで包み、四千円もした高級な腰巻きセーフティポーチとともに、段ボールへ収監した。
近所の八百屋で譲り受けた、レタスの香りが微かに残る段ボール。荷造りを終えたバックパックを背負い、僕は周囲を走ってみた。
「軽い、背負っていない時よりも軽いですよ」
「郵便局、いこか」
渾身の冗談も、ナンシーの鉄仮面を割るには至らなかった。
荷物を抱え、東門の郵便局へ向かう。道中、僕は台湾初日の「カクガリとの遭遇」や「スケベ施設」の話を披露した。
「スペシャル体験はしてへんの? おもんないな」
またもや、彼女を笑わせることに失敗した。彼女は観光もせず、なぜ僕の断捨離に付き合っているのか。僕は「彼女は僕といて楽しいのだろうか」と、特有の卑屈な思考を回転させていた。
郵便局での手続きは、拍子抜けするほど滑らかだった。八百屋の段ボールは野菜の付着により拒絶されたが、綺麗な箱に入れ替えられ、数千円の料金で日本への空路が確保された。海外から荷物を送るという行為が、これほどまでに容易であるとは。僕は旅人としての階梯を一段登ったような、根拠のない万能感に包まれていた。
「良かった。これでまた思う存分、荷物を増やせますよ」
どうせ彼女は笑わない。そう確信して吐いた僕の軽口に、異変が起きた。
「ぐふふっ」
「なんと、いま、笑いましたね」
僕は、かつてない達成感を覚えた。これまで将棋好きの彼女に媚びて、『王手飛車取り』だの『鬼殺し』だのと将棋用語を散りばめても微塵も動かなかった鉄の女が、今、僕のくだらぬ冗談に崩れたのだ。
「うちは人見知りで、ツンデレやねん。緊張してうまく笑われへんねん」
「自分で言うと、ツンデレの効力は消失しますよ」
「ぶほほほほ、ほんまはな、昨日からずっと楽しいで」
緊張の糸が切れたのか、ナンシーは水を得た魚のように爆笑し始めた。その笑い方は、およそ淑女のそれとは程遠い、「ぶほほ」という奇怪な濁音を含んでいたが、僕は心底安堵した。
「バックパッカーたるもの、現地の人と触れ合うべきだ」という正論は理解している。しかし、異郷の地で、日本にいれば絶対に出会わなかったであろう人種と、こうして下らぬことで笑い合う。それは僕にとって、何物にも代えがたい貴重な体験だった。
その夜。台北駅近くで麺を啜り、僕らは宿に戻って三度、盤を挟んだ。
「おら!ふんどしの桂やで。ぶほほほ」
ナンシーの奇怪な笑い声が、夜の台北に響く。
僕は、八キロになったバックパックの軽やかさと、少しだけ重量を増した人間関係の心地よさに浸りながら、駒を並べた。
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巻き込まれる
午前十時。ガチャリという、もはや僕のプライバシーの崩壊を告げる乾いた音とともに、ナンシーが侵入してきた。
「おはようさん。朝メシ行くで」
来るかも知れないと、怯えながら迎える朝だった。
前日と同様、僕らはカフェで「今日、何を成すべきか」という不毛な合議を開いた。
「行きたいとこあんねん。ぐふふふ」
彼女の奇怪な濁音を含んだ笑い声に、僕は微かな不安を覚えたが、提案された『士林観光夜市』への出撃に異論はなかった。
僕は日本の祭りのような、人混みが心臓を圧迫する場所を毛嫌いしてきた。しかし、バギオの露店で「群衆の放つ得体の知れぬエネルギー」に触れて以来、その混沌を愛でる悪趣味に目覚めていたのだ。
断捨離を完遂したばかりの身ゆえ、物欲は皆無だが、食欲という野性だけは台湾の美食を求めて荒ぶっていた。
昼間は、台北の街を無目的に徘徊した。原色カラーの看板が、我先にと道路へ身を乗り出し、ビルからカビのように増殖している。
ふと足元を見れば、原付バイクの奔流だ。三体合体のごとき三人乗りは日常茶飯事。

「見てみ、シン。ヤバいであれ」
定員オーバーを極めた一家。五人乗りだ。お父さんだけがヘルメットを着用している。
「警察に捕まった瞬間に妻子を放逐し、運転手の自分だけは適法であると主張する魂胆ではないか」
「ちゃうで。人数分、ヘルメット持ってへんだけやねん」
街には暇を持て余したおじさんが異常増殖していた。五十代以上の、手ぶらで虚空を見つめる男たちが、駅前や公園を埋め尽くしている。
「家庭に居場所を失った老兵は、外で時間を潰すしかないのだ。悲しき男の末路である」
「なるほどな。実はあれで仕事中やったり、実はおばはんやったりするんちゃうか」
「あるな」
そんな不毛な議論を戦わせながら、僕らは巨大な公園で五十人ほどの老人集団が熱狂する現場に遭遇した。
中央では、謎のボードゲームに札束が飛び交っていた。ワールドカップのごとき盛り上がり。将棋指しの僕らにとって、交互に駒を置くその所作は極めて興味深かった。
と、気づけばナンシーが消えている。小柄な彼女を、加齢臭漂う男たちの壁の中から探し出すのは至難の業だ。十分ほど彷徨い、もしや誘拐か、あるいは僕を見捨てて帰宅したのかと絶望の淵に立たされた、その時。
いた。札束を握りしめ、地元の老人に台湾将棋で挑むナンシーの姿があったのである。

「おう、いまジジイと一勝一敗やで」
「勝ってどうする」
言葉も通じない異国で、いかにしてルールを看破し、地元の猛者を撃破したのか。謎は深まるばかりだ。僕は暇に飽かして、彼女の対局相手に「鼻毛」「耳毛」「亀仙人」とあだ名を授け、一足先に宿へ退却した。

十七時。ナンシーが帰還した。
「台湾将棋、どうだった」
「ルール、分からんまま終わったわ」
「なんですと」
彼女はルール未達のまま、内臓を売り飛ばされるリスクを冒して賭け事に興じていたのだ。
「全額返してくれはったわ。茶ももろうた」
台湾人の親切心は、もはや理屈を超越している。言葉も通じぬまま盤を挟めば、それだけで人は対等になれるらしい。
そして空腹の極致、僕らは士林夜市へ突撃したのである。
駅を出た瞬間から、八角の香気と圧倒的な人だかりに脳が痺れる。足元には油が薄く広がり、靴底がわずかに滑る。鉄板の焼ける音と、客引きの声と、笑い声が、方向を持たないまま耳に流れ込んでくる。
「ぶふふ。あんた、何をニヤニヤしてんねん」
「ぬふふ。ナンシーこそ笑っているじゃないか」
彼女が指差す先には、僕らの常識を根底から覆す、風紀の乱れた菓子が鎮座していた。
「チンポまんじゅうやで。ぶふふ」

そこには色とりどりの陰茎を見事に形どったまんじゅうに睾丸側から木串で貫いて、立てて並べるという、まるで江戸の好色男が因果応報で味わった性罰の図絵のような有様だった。
「あんたのやつより立派やんなぁ。一本買うたろかバックパッカー」
「なんという下品な人だろうか」
店員のおばちゃんは、僕らの狂騒を仏のような慈悲で見守っていた。僕は、子供を連れた親のような気持ちで、形はどうあれ甘味であることを理由に、後回しにすることを提案した。
そこへ、突如として死の腐臭が漂ってきた。
「うわ、くっさ」
「公衆トイレと変わらんで、これ」

正体は臭豆腐だ。油で顔をテカテカにした、やけに自信に満ち溢れたような表情の男が、憐れむような目で僕らにそれを勧めてくる。
「ヘイヘイ、そこのナイスカップル、ひとついかがかな」
彼は迷いなくそれを口に放り込み、誇らしげに胸を張った。
臭ければ臭いほどいい、逆に。
そのようなラーメン屋が日本に点在しているが、それを好むものは大抵この顔をしている。
「おええ、よう食えるで」
僕らは悪臭で食欲を欠く前に、臭豆腐の射程外である地下街へと逃走した。
「ここはここで、ドブの香りがしますな」
せっかくだから台湾らしいものをと、地下を歩いて回ったが、結局、『揚げ物屋』に落ち着いた。ナンシーは巨大なフライドチキン、僕は海鮮フライを注文したが、その量は僕らの完食の意志を瞬時に粉砕した。
衣の硬さに上顎の粘膜がずるりと剥がれ落ちたその時、僕たちは店内の奥深くに、地獄の絵図を目撃した。

半裸の親父がM字開脚で猛烈にキャベツを刻んでいる。その巨大なまな板の至近距離には、菱形で真っ赤な腹掛けだけを身につけ、尻を丸出しにした幼児が鎮座していた。商売として飲食店を運営しているはずだが、あの座り方では、ほぼ確実に子供の肛門が衛生的であるべき作業台に接している。テーブルには、家族の日常が、肛門とともに直に置かれているのである。
「なんちゅう光景やねん。ぶははは」
初日に会った時とは比べ物にならないほど、彼女はリラックスしているようだった。帰り道、僕らの話題は「金太郎親子」で持ちきりになった。
台北の夜、再び将棋を指す。パチ、と。
「ほれ、飛車成りやで」
「お好きにどうぞ、パチン。次で詰みです」
「ああ、これはあかん」
僕は、将棋をしに台湾に来たのか、あるいは混沌を摂取しに来たのか。自問自答しながら、深夜の盤上にまた歩を進めた。
揺さぶられる
ナンシーとともに断捨離を敢行したおかげで、僕の荷造りは驚くほど軽快な儀式へと変貌を遂げた。二十キロの業を背負って彷徨う限界を知った僕にとって、この八キロの軽やかさは、移動のストレスを発散させる魔法のような正解であった。
「ナンシーには感謝せねばならぬよな。よし、そろそろ行くか」
午前十時。チェックアウトの刻である。午後九時のフライトまでの暇潰しを画策しながら、忘れ物がないか部屋を見渡した。
ガチャリ、と例の音がした。
「おはようさん、朝メシいこか。ってあんた、何してんねん」
もはや驚きもしない恒例の侵入。しかし、僕らはこの三日間、互いの素性も予定も、本名すら明かさぬまま、ただ歩き、将棋を指し、無秩序を笑い合ってきた。
「チェックアウトだよ」
「言うてへんかったやん。とりあえず朝メシ行くで」
いつものカフェ。ナンシーはいつも以上に無口で、その無表情な面から立ち昇る煙をじっと見つめていた。サンドイッチを完食し、最後の一服を終えた瞬間、彼女の口から濁流のような言葉が溢れ出した。
「シン、ほんまに今夜行くんか。もっとおったらええやん。うちが別日の航空券買うたるわ。バックパッカー、金ないやろ」
「むむむ」
「あんたとおって毎日楽しいねん。うちは九月七日に帰るから、その日の便も買うたる。フィリピンでもシンガポールでも、どこでも行ったらええ。な、頼むわ」
困惑する僕を置き去りに、彼女の独白は加速する。
「あんたが好きやねん。ほんまは付き合って欲しいくらいやで」
「えええ」と、驚きのあまり目を逸らす。逸らした視線の先、彼女の握りしめた拳が、真剣にこちらを見ている。
「昨日、『ナイスカップル』て言われて、うちほんまに嬉しかってん。でもな、うちは三十四やし、結婚もしてんねん、旦那とはもう住んでへんけどな。ほんでうち、横浜のイタリアンの料理長やから、休みもなかなか取られへんし、せめてあと四日、一緒にいて欲しい。その、やりたいんやったら、やってもええ」
「えええっ」
「でも勘違いすんなよ。あんたは女にモテへんタイプや。おもんないし、アホやし、金もない。キモい。でも、それでもええ。好きなもんは好きやねん。今日行くなんて信じられへん、もっとおってほしい」
なんというか、全部言ったな。声だけが少し掠れていたように感じた。
相槌を打つ隙すら与えず、彼女は自身の抱える矛盾も、恥辱も、情愛も、すべてを白日の下に晒したのである。あまりにも唐突で膨大な情報の質量に、僕の脳は処理落ちを起こして立ち往生するほかなかった。
十七時。台北駅バスターミナル。
午前中の衝撃的な告白の余韻で、僕は相変わらず妙な心持ちであったが、当のナンシーは憑き物が落ちたように穏やかだった。
「これあげるわ。空港で食べぇ」
手渡されたのは、あの風紀の乱れた「チンポまんじゅう」だった。
「日本にお土産で持ち帰りなよ。絶対ウケる」
「旦那とは別れてるも同然やし、土産やる相手もおれへん。あとな、淫乱やから『やらせろ』言うたんちゃうねん。もう言わん。忘れてくれ」
「そうだったのか」
「ぶふふ、あんたはこれ食べて、デカくしいや。デカくなったら教えてな、跡形もなく食うたるわ。ぶはは」
僕の台湾旅行の記憶は、九份の絶景でもなく、歴史的建造物でもなく、ただ「ナンシー」という一人の女で埋め尽くされていた。観光らしいことは何一つせず、ただ近所を徘徊して将棋を指しただけ。しかし、その後悔は微塵もなく、むしろ旅行として完璧な充実感に満たされていたのである。
空港行きのバスが到着した。

「シン、来年の今ごろもまた休み取れると思う。そん時あんたがどこにおるかは知らんけど、またこうして遊ぼう。ほなまたな」
彼女はそれだけ言い残し、背を向けて去っていった。
「ほなまた」
バギオを出る時のそれとは別種の、どうにも始末の悪い余り物が胸に残った。
独りになった途端、あの不吉な不安が忍び寄る。日本にいた頃、自分を強い人間だと妄信していた僕は、異郷の地でたびたび、この弱々しい自分と対峙することになる。
四日前、財布を紛失し、絶望に暮れたあの空港へ戻ってきた。カクガリに救われたあの夜。今の僕は、少なくとも「夜中の到着なら安全な空港で寝るべきだ」という、血肉化した知恵を持っている。旅人として、僕は微かながらも成長を遂げていた。
午後八時三十分。桃園国際空港。
フィリピン、クラークへの便の搭乗が始まる。到着は十一時。
「クラーク空港のベンチで寝て、明日の朝に何をするか考える。ひとまずこれでいいはずだ」
ゲート前の椅子に座り、僕はあの忌まわしくも愛おしいチンポまんじゅうを完食した。
結局、名前すら確かめていないことに、その時になって気づいた。重さを失ったバックパックと、ほんの少しだけ何かを置いてきたまま、機内へ乗り込んだ。
