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旅人失格

二十時間の監禁。翌日には再び十時間のゴアへの移動が控えているという事実に、僕の脊髄は戦慄を禁じ得なかったが、まずは一泊の休息を求めて街へと踏み出した。
ムンバイの第一印象は、「純度の高いインド」であった。これまでの街にいた外国人バックパッカーの姿は消え、視界を埋め尽くすのは濃密なインド人の群れのみ。彼らの視線は、異物である僕を執拗に射抜いてくる。
僕はタクシーを拾い、予約済みの宿へ向かった。運転手は、テンプレート通りの、親切を装った捕食者の顔で話しかけてきた。
「宿はどこだい」
「予約してある。直進してくれ」
「宿の名前を言え。おそらくそこはもう閉まっている。弱肉強食の街だ。俺が最高のホテルを知っているから」
聞き飽きた口上だ。僕は試みに、ジャイプルで泊まった宿の名を告げてみた。
「宿の名は、確かシトラカタホテルだ」
「あぁ、はいはい。あそこね。うん、閉まってる。あれは糞宿でしたからね。俺のフレンドの宿へ行く。いいか」
どうしてこうも簡単に嘘がつけるのだろうか。もう彼らに期待することはやめようとデリーで近ったはずだった。同時にそれを面白がることにも飽きていたはずだ。
「すまぬ。今のはジャイプルの宿だった」
一瞬の沈黙。しかし、この男の図々しさは僕の想像を超えていた。
「俺は、ジャイプル出身だからな。その宿は知ってる」
なんという、辻褄の合わぬ言い訳か。出身地を盾に、時空を超えた嘘を正当化しようという厚顔無恥。
「やっべぇ、嘘がバレちゃった。堪忍な」みたいなものが僕は欲しかった。
「そうきたか、ならば」じゃねえんだよ。
僕は「次の信号で停めろ」と一喝し、彼の未熟な詐欺の練習に付き合うのをやめた。

辿り着いた宿は、運転手の「糞宿」という予言を、図らずも的中させる惨状であった。
スタッフは笑顔で親切なのだが、案内された部屋のシーツは砂塗れだった。恐らく聖なる河のほとりで砂と共に洗濯され、大地と一体化したまま乾かされたのであろう。
「シーツを交換してくれませんかね。砂がすごいんだ。紙やすりのようだ」

僕がそう訴えても、宿の親父は「なぜそんな些細なことを気にするのか」という純粋な困惑の表情を浮かべるばかりだった。彼が笑顔で持ってきた新しいシーツは、より一層の砂を含み、ザラザラとした大地の感触を僕に約束していた。僕は諦め、自らシーツを外へ持ち出し、バサバサと叩きつけることで、ささやかな抵抗を試みるしかなかった。
それを眺めている宿の親父、さらには属性のわからぬ十五人ばかりの成人男性の集団が、ニヤニヤと卑屈な笑みを浮かべてこちらを凝視している。
その視線は、あたかも露骨にビデオカメラを向けられ、僕のプライバシーを隅々まで舐りまわすかのような、不気味かつ粘着質な嫌らしさに満ちていた。
僕の存在そのものが、彼らの下卑た娯楽の餌食となっている。一分一秒が、不快極まりない停滞の時間だった。

さらに、部屋に備え付けのシャワーからは一滴の水も出なかった。
僕は怒りに震え、脱ぎ捨てた下着を慌てて履き直し、いわゆるパンイチの姿、心はふんどし一丁でクレームを言いに行った。
「水が出ない。あれは枯れたひまわりか」
説得力を欠いた格好の僕を見て、彼らは爆笑している。親父は部屋に来るなり、シャワーではなく下の蛇口をひねった。
「うちはここから。そういうスタイル」
「それはシャワーではないだろう。このトイレと一体になった床に這えと申すか」
「いいじゃないの、ほらこれ」
渡されたのは、取っ手付きの洗面器だった。「これで事足りるだろう」という、有無を言わさぬ笑顔に圧され、僕はそれ以上の追求を断念した。

だが、洗面器に溜まる犬の小便の如き細い水流では、僕の身体にまとわりついた二十時間の汚れとストレスを落とすにはあまりに心許ない。一時間はかかる。つまり合計二十一時間だ。それでまた腹の中に石が積み上がる。
何がいけないんだ。金がないからか。世界はいつまで僕を嘲笑のだろう。
「もういいです」
急に来た。自分でも意外だった。シーツが原因か。それとも水か。いや、今日までの全部だ。
何もかもが圧縮され、もうパンパンの状態だったものが、爆発寸前。まるで水揚げされたフグだ。
サラガミといたらこれも楽しめたのか。サダヲだったらどうなんだ。ケゴイとヤブレ、グンマさん、スティーブ、ホンコン、ナンシー、もう誰でもいい。ゲジマユ、キノコ、お前らでもいいよ。
一緒にこれを笑い飛ばしてくれよ。無様な僕を。この国を。
「爆発する前に日本から脱出する」と息巻いていた成れの果てがこの有様だ。

泡まみれのまま、僕は汚い便座の横にあぐらをかいて、どっしりと尻を床につけて座った。
「生活する場所が違うだけ、そうだよな、大葉さん」
僕は、禁断の果実へと手を伸ばす。
文明の中でも最初の方である「紙」を知らないこの国のトイレ。その横に必ず鎮座する、あの「尻を洗浄するための専用ホース」、すなわち手持ち型、インド式手動ウォシュレットである。
僕はそれをインドに来て初めて触った。素手で、しっかりと握った。
そして、全開にした。

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「最高だ、わははははは。最高じゃないかこれは」
勢いよく噴出する水流が、僕の肉体を、そして荒んだ精神を洗い流していく。
「ざまあみろ!僕はアジアの肛門だ!」

人間であることをここで辞めた。異文化を理解しようと努める「高潔な旅人」を気取り、不条理をスマートに受け流す自分に酔い、挙句の果てに「インド人という現象が起きた」のように小賢しく形容して悦に浸っていた。
そんな小ざかしい「旅人」は今、ムンバイの便所の床において、高圧の水流によって完膚なきまでに射殺された。
そうだ、僕は旅人として、失格なのだ。

他人の排泄物を粉砕し、冷徹に狙い撃つためだけに設計された、この高圧の尻洗浄のための毒蛇。その水圧に身を委ねた瞬間、僕の脳髄にこびりついていた「日本での常識」や「指紋ベタベタの旅人としての矜持」といった、救いようのない汚らしい未練は、根こそぎ削ぎ落とされたのだ。

僕は狂ったように笑いながら、その咆哮する蛇の口先、すなわちノズルを自らの口内に突っ込んだ。
喉の奥を直撃する、錆と塩素が渾然一体となった暴力的な水流。それは二十時間の監禁で干らびきった僕の喉を、粘膜ごと引き裂くような勢いで潤していく。
「サラガミ、ケゴイ、ヤブレお前らも来い! この聖なる水を分かち合おうぞ。これが旅だぞ馬鹿たれども!」
この不潔極まる液体こそが、今の僕にはどんな高級なミネラルウォーターよりも慈悲深く、甘美な聖水として細胞の隅々にまで染み渡っていくのである。
「わはははは、旅人、失格!僕は、ただのタンパク質の塊だ」
僕はホースを頭上に掲げた。
重たい自意識という名のバックパックは、今この瞬間、高圧の水流によって継ぎ目からバラバラに弾け飛び、ムンバイの下水へと叩き落とされた。
カビの生えた天井に跳ね返る、不潔な虹。
汚い。死ぬほど汚い。
だが、その汚さこそが、僕の魂を呪縛から解き放つ聖なる劇薬であった。
「見てるかサラガミ。 僕は今、お前の失くした荷物よりも、もっと取り返しのつかない品性という名のガラクタを全て捨て去った」
僕は泡まみれの顔を歪ませ、腹の底から咆哮した。
不衛生、嘘つき、詐欺、ぼったくり。
知るか、そんなもの。
貴様らが何を言おうと、僕は今、この尻の穴専用ホース一本で、全宇宙を巨大な肥溜めとして再定義し、その中心に君臨する糞尿の王となったのである。
僕はもう、どこへも行かない。何物にもなれない。ただ、この冷徹な水圧に打たれ、この世界の最後尾を味わい尽くすだけの肉塊だ。
「撃て、もっと撃て。『旅人』の残骸を、根こそぎドブ水へ流し込め!」
僕は、笑い続けた。
目に入る泡の激痛と、喉を焼く錆びた水の感触が、僕が今、ムンバイの安宿の便所という宇宙の深淵において、最高に無様で、最高に自由な人間であることを、これ以上ないほど鮮烈に祝福していた。

身を清めた僕は、半日の徒歩観光へと繰り出した。
ムンバイは、ロンドンのような威厳ある近代ビル群と、世界遺産かと見紛うほどに朽ち果てた住宅地が、刃のように隣り合わせに存在する街であった。
街中には、絶え間ないクラクションの轟音が響き渡っている。状況を変えようなどという野心はそこにはない。それは、空っぽの頭蓋骨を互いに叩きつけ合うような、中身のない反響であり、彼らはただ空虚を埋めるためだけに警笛を鳴らし続けている。

宿の近くでは、凄惨な光景を目撃した。
痩せた男が十人ほどの群衆に囲まれ、ボコボコにされている。これは「私刑」であった。警官という名の役立たずを信じぬ彼らは、独自の正義感に基づき、犯罪者を民間の力で物理的に粉砕することで秩序を維持しているのである。自分の不道徳は棚に上げ、他人の悪を許さぬその激しい国民性に、僕は目を細めた。

チャトラパティ駅という、壮麗な建築を抜けて「インド門」へと辿り着いた。かつてイギリスがその権威を誇示した巨大な門の前にも、外国人観光客の姿は稀であった。
門の前に立ったとき、ほんの一瞬だけ、何かが美しいと思いかけた。だが残りの観光を片付けるために、僕はマリーン・ドライブへ歩行を進めた。
海岸沿いには、インドでは珍しく手を繋ぎ、熱烈な愛を囁き合うカップルが大量発生していた。戒律だの神だの、そういった面倒な理屈はどうでもよかった。
彼らはただ、アラビア海の潮風に煽られながら、互いの体温を確認し合うというだけの、無機質な生物的運動に耽溺しているように見えた。

夕日がアラビア海に没するのを見届けた後、宿の近くのバーに逃げ込むと、そこは外見からは想像もつかぬほどカレー臭が充満し、暗闇が支配する怪しげな空間であった。
「ボンベイ・サファイア」という、かつてこの街がボンベイと呼ばれた時代に由来する酒を求めたが、ボトル棚にその姿はなかった。だが、隣に座った得体の知れぬおっさんの面白さに釣られ、僕はタンドリーチキンとビリヤニを平らげ、長居をしてしまった。
充実、という言葉で片付けるにはあまりに濃密すぎるムンバイの夜。
宿に戻った僕は、再び尻洗浄ホースによる「禁断のシャワー」を浴び、泥のような眠りについた。
「気持ちいい」
その呟きは、ムンバイの喧騒の中に静かに吸い込まれていった。

無駄にするな

ムンバイからゴアまで、十時間。
常人ならば発狂を免れぬ長距離移動であるが、今回の僕は一味違った。チャトラパティ駅の窓口で、奇跡的に「二段寝台・冷房完備(AC2)」という、インド鉄道における貴族階級の如き席を確保したのである。
カーテンを閉めれば、そこは俗世から切り離された聖域だ。これまでの三段寝台(SLクラス)の、人肉の蒸気が支配する地獄とは雲泥の差である。僕は横になり、かつてバンコクでゲジマユから押し付けられた、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのアンソニーによる自伝、その英語の林に分け入った。
「あまりに暇だと、人間は語学の勉強などという殊勝な振る舞いを始めるものだな」
辞書を片手に、亀の歩みで異国の言葉を咀嚼する。外界の喧騒は冷房の微かな唸りにかき消され、僕はしばし、旅人であることを忘れて活字の海を漂った。

一時間ほど経った頃、その静寂は破られた。
「ハイ、国籍はどこだい」
「Where are you from?」ではなく、「What is your nationality?」。そういえばインドでは、まず何者かを確かめられることが多かった。

顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。アビシェク、三十歳。僕より四つ年上の、一見するとどこにでもいるインド人だが、その外見には決定的な「違和感」が凝縮されていた。
インドという国は、カーストという目に見えぬ呪縛が、人々の装いすらも画一化する。襟付きシャツを制服のように着用し、スラックスに革靴、そして顔面にはフォーマルな口髭。それが「バカにされないための鎧」としての標準装備だ。
しかし、このアビシェクという男は、あろうことかH&M風のTシャツに短パン、そして足元には眩いばかりのアディダスの白スニーカーを履いていた。さらに、その胸元には「選挙を無駄にするな」という、この国の腐った民主主義をあざ笑うかのような文言が刻まれていたのである。
と、よく見たらもう一方の、面白い方の「エレクション」だった。何者だ、この男。

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「アビシェク、君の宗教は」
ゴア出身ならばキリスト教か。あるいは最大勢力のヒンドゥーか。
ザビエルが長崎へ向かう前にキリスト教の種を撒き散らしたというゴアの歴史を背景に、僕は問いかけた。
彼は「ヒンドゥー教徒だ」と答えつつも、その直後、自らのルーツを完膚なきまでに全否定してみせた。
「肉を食べないなんて、正気の沙汰じゃない。牛も豚も、美味いものは美味いだろう」
彼は車内で、神の化身たる牛を挟んだビーフバーガーを、何のためらいもなく咀嚼した。
どこでそれを手に入れたのか。僕は毎日、牛肉を探して歩いているのだ。
お祈り、沐浴、彼の口から漏れるのは「時間の無駄」という冷酷な裁断のみだった。もしかすると、命を削りながら歩くバックパッカーという遊びも、彼にとってはそうなのかもしれない。

「数百年前の誰かが捏造した、実体のない神に縋る暇があるなら、PCを開いてインターネットの深淵に接続すべきだ。現代の潮流を知ることこそが、真の幸福への近道なのだから」
彼の仕事はウェブ広告関係。神よりもグーグルのアルゴリズムを信奉し、聖なる河よりも光回線の速度を尊ぶ。その正論すぎる言説に、僕は「インドっぽさがなくなったら、この国はただの暑苦しい場所になってしまうではないか」という、バックパッカー特有の身勝手な寂寥感を一瞬覚えたが、それもすぐにどうでもよくなった。

十時間の道中、僕たちは言葉を教え合う「言語交換」という名の暇つぶしに興じた。
日本語の複雑怪奇なシステムを説く僕に、アビシェクは驚嘆の声を上げたが、特に「日曜日」という言葉が、彼の合理的な脳細胞を激しく混乱させた。
「なぜ、日の読み方が毎回変わるんだ。意味が分からない」
「実は、僕にも分からない」
当たり前に使っている母国語の不条理に直面し、僕は説明を放棄した。
逆に彼から教わったヒンディー語の文字の羅列は、僕の目にはもはや「象形文字の成れの果て」にしか映らなかった。
「こんな意味不明な呪文を覚えるくらいなら、英語で十分だ」
僕は早々に降参し、自国語の迷宮から逃げ出した。

結局、十時間。アビシェクと喋り倒し、冷房の効いた車内で文明的な時間を過ごした末、列車は夜の七時にティヴィム駅へと到着した。
アビシェクと連絡先を交換し、再会を誓ってお別れをした。彼はそのまま、光り輝くインターネットの海へと帰っていった。

僕はそこから、かつてのヒッピーたちの聖地、アンジュナビーチを目指した。
駅を出れば、あたりは既に闇に包まれている。相乗りする仲間も見当たらず、僕は独り、割高なタクシーの座席に身を沈めた。

ついに、ゴアだ。
ムンバイの屈辱のシャワーを潜り抜け、僕はラジャスターンからの強行軍に終止符を打つべく、この海辺の街へと辿り着いた。
「今度こそ、泥のようにだらけてやる」
僕は闇の向こうに広がるアラビア海の気配を感じながら、タクシーの窓を叩く湿った夜風に、静かに身を任せた。

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消えることのない問い

ムンバイから十時間。ティヴィム駅に降り立った僕を待っていたのは、潮気を含んだ夜気と、客を捌くことすら億劫そうにしているタクシー運転手の横顔であった。
街灯もなく、水田と薮の中をタクシーは進む。インドに来て初めて村のような場所へ辿り着いた。最大都市ムンバイで疲れた旅行者が集まるには絶好の場所なのだろう。
「ここでいいよね」
投げやりな宣告と共に降ろされたのは、アンジュナビーチの手前に位置する「アンソニーズ・ゲストハウス」。本来なら八百ルピーを要求される代物だが、十月という「雨季の残滓」が支配するローシーズンゆえ、四百ルピーという破格の値段でシングルの小綺麗な部屋を掠め取ることができた。宿の近くには一応二、三の商店があり、牛肉のハンバーガーを出しているレストランがある。少し歩けばスーパーマーケットがある。その手前には日本語で「刺青」と書かれたタトゥースタジオもあった。
ゴア。そこはインドにあって、酒という名の悪徳が日常として許容される稀有なキリスト教の街である。
イスラムだのヒンドゥーだの、そういった面倒な理屈はどうでもよかった。大瓶のビールが百ルピー足らずで手に入るという事実は、コルカタからの旅で枯れ果てた僕の喉を潤した。

翌朝、僕はメインストリートへと這い出した。
しかし、眼前に広がるアンジュナビーチは、僕が夢想していた極彩色のパーティプレイスとは程遠い、荒涼とした風景であった。
荒れ狂う波、灰色の空、そして活動を停止し、固く口を閉ざしたバーやクラブの数々。砂浜にはヒッピーの代わりに、所在なげな牛たちが点在している。
かつてここを埋め尽くしたであろう狂乱の残骸を、僕は独りで眺めていた。ムンバイの便所で自意識を洗い流した僕にとって、この寂れた風景は驚くほど肌に馴染んだ。誰と話すでもなく、ただ灰色の波が寄せては返すのを視神経に焼き付けるだけの時間が過ぎていく。
ゴアに着いたら死ぬほどだらける。この旅で唯一達成させそうな目標がこれとは、なんとも情けなく、正直な話だろうか。

ゴアのビーチは、南へ行けばリゾートの華やぎがあり、北へ行けば未開発の静寂があるという。
暇を持て余した僕は一日三百ルピーというレンタルバイクを借り受けた。
「これで行こう。どこまでも」
だが、道中の舗装はインドの行政の怠慢を象徴するかのようにズタボロであり、一人で跨るスクーターの振動は、僕の脳髄を直接揺さぶる。
バガやカラングートといった喧騒の残るエリアへも足を延ばしてみたが、そこにある享楽も、今の僕には薄い膜の向こう側の出来事のように見えた。

「次は、ハンピだ。それで終わり」
街灯もないボコボコの赤土の道路。独りでハンドルを握り、死の恐怖と闘いながら荒野を疾走している間だけ、僕は自分がまだ「旅=移動」という現象の中に存在していることを実感した。

六日目にハンピへの切符を手にした。
アンジュナからローカルバスを乗り継ぎ、マプサ、ホスペットを経て、聖地ハンピへと至る長い旅路。
『地球の歩き方』の頁をめくるたびに僕を誘惑し続けた、あの巨岩の荒野がついに射程圏内に入った。興奮はない。この「桁違いにしんどい国」を去る日が近づいているという事実だけがそこにある。憎み抜いたはずの喧騒が、いざ手放すとなると、愛おしい思い出のように色づき始める。

ゴア最終日の夜は嵐だった。空が裂けたかと思うほどの豪雨が降り注ぎ、街は一瞬にして停電の闇に飲み込まれた。
アンジュナから電気が消え、扇風機の回転が止まり、僕は湿った闇の中で、明日から始まる最後の巡礼に思いを馳せた。
「ゴア、気に入った。次は、乾季に来ることにしよう」
「次があればな」アンジュナビーチの潮騒が、遠くで壊れた蓄音機のように嘲笑う。

僕は湿った安宿のベッドで、不意に右の足首に走った「痒み」に意識を向けた。そこには、ゴア二日前に刻んだばかりの「?」という記号が、赤く腫れながら僕を嘲笑うように鎮座している。
迷いの象徴ではない。それは、ムンバイの便所で自尊心を下水へ流し去った僕が、自分の空虚を確認するために打った、句読点ですらない無意味なタトゥーだった。

この「?」を僕の皮膚に穿ったのは、ホリコという名の女だった。

百貨店の化粧品売り場で熱心にテスターを試し、洒落たカフェで食べる前には必ず一枚だけ写真を撮る。そんな、日本のどこにでも転がっていそうな平熱の日常に溶け込んでいる顔だ。
僕が勝手に抱いていた、殺伐とした「彫り師」の虚像とは、一向に噛み合わない。年齢すらも読めない。
「まあまあ、いいじゃない。君よりはお姉さんだ」
僕の戸惑いを見透かしたように彼女は笑い、紫煙を僕の顔に吹きかけた。

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宿の前の通り沿い、ゴアの熱気と日本人特有の清潔さが混じり合う小さなスタジオで、彼女は二十六歳の僕の未熟さを、その経験値の差で静かに圧倒していた。
「男の子はさ、羨ましいよ」
施術が終わり、軟膏を塗り終えると彼女は楽しそうに話し始めた。
「男の子にとって、恋愛は人生の『一部』でしょ。仕事があって、遊びがあって、旅があって、その横に恋愛が並んでる。優先順位の問題じゃない。それぞれが別の引き出しに入ってるんだよね。だから君たちは、恋をしても、自分を失わずにこんな場所まで来られるんだ」
僕は、彼女の言葉の真意を測りかねて、「女心ってのは難解なパズルですな」などと、小賢しい返答を濁した。だが、彼女は僕のそんな子供染みた逃げを許さなかった。
「飲むか」
彼女はそう言って、自前のバイクを引っ張り出し、僕を後ろへ乗せてビーチのレストランへ向かった。

キングフィッシャーの大瓶が三本、四本と転がり、アラビア海に突き刺さるような西日が、彼女の脱ぎ捨てられた上着の隙間から覗く豊かな肢体を、残酷なまでに鮮明に照らし出している。

「女の子は違うんだよ。それが『全部』になっちゃうんだ。一番とか二番とかじゃない。人を好きになった瞬間に、それまで積み上げた絵描きの夢も、美大での日々も、日本での平穏な生活も、全部その人の色に塗りつぶされてもいいと思っちゃう。だから私、全部捨てて、あの男の家に入ったんだ」
彼女はかつて、美大を卒業し、画家を夢見ていた。バイト代をはたいて個展を開き、キャンバスに向き合う日々を送っていた。だが、二十九歳の時、「夢ではメシが食えない」という冷徹な現実に筆を折り、自分探しの旅という、キラキラした言葉に縋ってインドへ飛んだ。
そこで出会ったムスリムの男。
彼女はその「愛」という名の劇薬に身を任せ、一夫多妻制という、現代日本人の想像力を絶する迷宮へと自ら足を踏み入れたのだ。
「私以外に、奥さんが十人くらいいたんだよ。信じられるかい、旅人君。部屋に入れば、言葉の通じない女たちが牙を剥いて私を待ってる。日本人である私は、彼女たちにとって格好の娯楽であり、排除すべき異物だった。ご飯に洗剤を入れられるなんて、挨拶みたいなもん。暴力だって、愛の裏返しなんて高尚なもんじゃない。ただの、剥き出しの排斥だった」
僕の口の中で石鹸が泡立つような味がした。
規律と束縛。イスラムの厳格な戒律の中に、かつての「芸術家」としての個は霧散し、彼女はただの「十一番目の妻」という記号に成り果てた。
その窒息しそうな地獄から、彼女が命からがら逃げ出した先が、インドで唯一、酒と享楽が許容される自由の聖域、キリスト教圏のゴアだったのだ。
「そこで出会ったんだよね。ビーチの片隅で、一言も喋らずにタトゥーを彫り続けてる、本物のジャンキーに。彼はアーティストだった。理屈じゃなくて、その佇まいそのものが、私の止まっていた時計の針を無理やり動かしたんだ。毎日スタジオに通って、何も話さず、ただ彼が皮膚を削る音を聞いてた。そうしたら、また絵が描けるようになった」
だが、インドという国は、再生の物語をそう簡単には完成させてくれない。
「彼はね、三十代でコロッと死んじゃったよ。コカインのやりすぎ。笑っちゃうよね」
彼女は自嘲気味に鼻で笑ったが、その瞳の奥には、どんな罵詈雑言よりも深い悲しみが沈殿していた。
「悔しかったんだよ。彼が死んだことより、彼が持っていたあのアートが、この世から消えてしまうことが。二度と見られなくなることが。だから、決めたんだ。私が彫る。私が継ぐ」

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それからの彼女の生き方は、狂気そのものだった。
三十二歳という年齢から、彼女はなりふり構わずタトゥーマシンを握った。練習期間も、師匠からの許しも必要なかった。道具を揃えたその日から看板を出し、帰国して実家をスタジオに改造し、ゼロから商売として、彫り師としてのキャリアをスタートした。己の体へ彫り込み、技術を錬磨した。金を貯めてインドへ戻ると、今度はダラムサラの路上で、ただひたすらに場数を踏んだ。
それは、自らを壊した「愛」への復讐であり、同時に自分を救った「芸術」への盲目的な帰依だった。

「日本人の頭の中ってさ、複雑で、回りくどくて、でもドラマチックで美しいと思わないか、シン。イスラムの彼を愛したことを後悔はしてない。今でも世界一愛してるよ。でもね、そこに美しさはなかった。ただの繁殖と、配偶行動。ストレートすぎて、私には眩しすぎたんだ」

西日が、彼女の少し潤んだ瞳を直撃する。
僕は黙ってその美しい横顔を眺めた。
「四十にもなるとさ、涙もろくなってしょうがないよ。君にもいつかわかるかな。ははは」

インドという広大な土地に根を張り、呪いのような業を抱えながら、それでも表現者として生きるしかない一人の女の凄絶な美しさだった。
「ホリコさん、四十歳だったんですね」
「はっ、違う。永遠の二十八、永遠のやつ。ほら、飲めよバックパッカー」
彼女ははしゃぎながら、五本目のキングフィッシャーを僕に差し出した。
その無邪気な笑顔が、今の僕にはどんな経典よりも重く感じられた。

あの日以降、「雨季だからしばらく店閉める」と言って別れたホリコさんを見ていない。
僕は明日、ゴアを去る。
身軽な旅人を気取り、ハンピという終着点へ向かって軽やかに移動する。
だが、彼女はどうだ。
彼女はこのゴアという湿った土地に、自分の過去も、愛も、憎しみも、死んだ男の記憶も、すべてを堆肥として埋め込み、そこから芽吹くタトゥーという毒花を育てて生きている。
僕の旅は、移動することでしか成立しない薄っぺらな線だ。
彼女の人生は、一箇所に留まり、その場所に自我を彫ることでしか得られない、重厚で血生臭い、立体的な塊だった。
僕は、ホリコという女の重さに当てられ、自分の軽さを認めた。
だが、それさえも、明日にはバスの揺れと共にどこかへ消えてしまうのだろう。
一週間ぶりの移動。足首の「?」マークが、また疼き始めた。
それが彼女が僕に遺した、消えることのない「問い」であるかのように、僕は暗闇の中でその痒みを執拗に掻き毟り続けた。

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