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劇団インド

アーグラーからデリーまでの、およそ四時間の道のり。
本来、僕たちの手元にあるはずのチケットは、最安の「GN」(ジェネラル・ノーリザーブ)なる紙切れだった。それがいま、寝台(SL)の窓から吹き込む奔放な風に吹かれ、人としての尊厳を保てるだけの座席スペースを優雅に占有している。
こうして夕陽を浴びながら感傷に浸っていられるのは、ひとえにアーグラー駅のホームで遭遇した、ある小綺麗な男の介入があったからに他ならない。

まだ僕たちが、目的地へ運ばれるだけの無力な貨物として、アーグラー駅のホームに転がっていた一時間前のことでだった。
僕らの前には、喧騒のインドにはおよそ不釣り合いな、皺一つないショッキングピンクのシャツを纏い、鏡のように磨き上げられた革靴を履いた男が立っていた。
「ちょっとここで合ってるか、あの男に聞いてみる」
サラガミが立ち上がり、その清潔の塊のような男へ問いを投げに行った。
僕は荷物番として、その光景を眺めていた。数秒の会話を経て戻ってきたサラガミは、「あっちだってさ。最後尾。あっさり教えてくれたよ」と告げた。
客引きや詐欺師の放つ、脂ぎった粘着質とは無縁のまともに会話が通じる相手だった。

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僕らは荷を担ぎ、彼が示した最後尾の列へと移動した。
しばらくすると、かのピンクの聖者がこちらへ歩み寄ってきた。
彼は僕らの手元にある薄汚れた最安切符を一瞥し、慈悲深い菩薩のような微笑を浮かべた。
「その席では、人の荒波にもみくちゃにされるぞ。駅員に話をつけて、良い席に変えてやろう」
ついていくと、彼は手際よく駅員と何事かを交渉し、僕らの切符に「SL」へのアップグレードを示す追記をねじ込んだ。しかも、無料だった。
「乗務員が来たら、寝たふりをしておけばいい。あとの始末は俺がつけておく」
彼は金の話をしなかった。

車内にはピンクと、彼と親しげに語らう数人の男たちが座っていた。
「なんて巨大な荷物だ。これでは座れん、三段目にあげてしまえ」
促されるまま、僕とサラガミは各々の全荷物を三段の最上段の寝台へと押し上げた。僕らが日本人であることや旅の経緯を話すと、いつの間にか、全員がこちらを見て笑っていた。
一時間ほど走った頃、予告通り検札の乗務員が現れた。
「おい、来たぞ。二人とも、寝たふりをするんだ。そうすればチェックは入らない」
ピンクがコソコソと囁く。
僕たちは、その甘美な誘惑に従った。まぶたの裏で、列車の震動と乗務員の足音を聞く。ヒンディー語が壁に跳ね返るように飛び交う。

しかし、わずか数秒後。僕たちの肩は無情にも叩かれた。
「チケットを出せ。寝たふりなど通用せんぞ」
耳元で炸裂した怒声に、僕たちはあえなく目を開けた。当然、追加料金を支払う羽目になった。
「なんだよ、全然ダメじゃないか」
愚痴をこぼしながら、サラガミが財布を取り出そうと立ちあがる。
その刹那、サラガミの動きが凍りついた。
「あれ、ピンクが、いない」
「なんだと」
僕も飛び起きた。
「シン」サラガミは震える声で、上段の寝台に手をかけたままつぶやいた。
「俺の、サブバッグがない」
サラガミの額から、滝のような汗が吹き出した。
そこには、彼のオーストラリアでの二年間を真空パックしたカメラ、PC、パスポートとカード類、そして友人たちからの血の通ったメッセージのすべてが収められていた。
「あいつだ、寝たふりをさせている間に盗み出したんだ」
僕らが騒ぎ出すと、周囲のインド人たちが一斉に蜂起した。
「なんてことだ、観光客にそんな真似をする奴はインドの恥だ。見つけて殺してやる」
男たちは己の身内が汚されたかのように激昂し、二手に分かれて車内捜索の指揮を執り始めた。
「前方チーム」と「後方チーム」へ捜索隊を分割。サラガミは残りの荷を死守すべく車両に残り、そこで目を光らせる。僕は後方へ走り、端から端まで見て回った。

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最後尾、地獄の窯の底のようなGN車両に辿り着いた。乗車率二百パーセント、もはや空気を吸う隙間すらなく人が詰まっている。肉の壁に阻まれて、これ以上先へは進めない。
僕は座席の段差に足をかけ、高所からピンクの残像を探した。
ダメだ。原色の洪水が視界を殴ってくる。
おばさん軍団のカラフルなサリーが、僕の焦燥をあざ笑うかのように揺れている。地面に座って悠然と汁物を食っている。列車は動いているのにここだけ蝿が舞っている。後ろのガキは、僕のズボンを執拗に弄る。
「僕らはここで四時間耐えるつもりだったのか」
嫌悪が込み上げたが、サラガミの荷物を盗まれた今となっては、この車両に乗っていた方がまだマシだったのかもしれない。

結局、どれだけ目を凝らしても、あの不自然なまでに鮮やかなピンク色が視界に戻ることはなかった。

駅に停まるたび、「今の駅で降りたかもしれない」という絶望が、重油のように心に溜まっていく。
前方から戻ってきたインド人捜索隊も、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「見つけられなくてすまない」
「インド人を嫌いにならないでくれ。あんな奴ばかりじゃないんだ」
「さあ、もうすぐデリーだ。警察へ行けば何とかなるだろう」
彼らは神妙な面持ちで僕たちの肩を叩き、デリー駅のホームへと僕らを促し、交番の場所を指差して説明した。
サラガミは、絶望の深淵にありながら、彼ら一人ひとりと握手を交わし、礼を述べていた。その気高くも哀しい礼節に、僕は戦慄すら覚えた。
列車は彼らを連れて行ってしまった。

駅の外に出たものの、手元の地図と目の前の光景が、一向に噛み合わない。
南口のロータリーもなければ、喧騒のデリーらしい巨大さもない。
僕は、喉の奥に張り付いていた違和感を、無理やり剥がすように口にした。「サラガミ、デリーって終点じゃなかったか」
口に出した途端、それは疑惑ではなく事実の顔をし始める。
まさかな、という言葉だけが、場違いに軽かった。
通りがかりの果物屋の親父に現在地を問うと、彼は僕の肩を叩いて豪快に笑い飛ばした。
「この地図で言うなら、お前の肩のあたりかな。ギャハハ」
「頼む、僕らは真面目に探しているんだ」
「いいかい、お二人さん。ここはデリーじゃない。もっと手前の『ファリダバード』だよ」
その瞬間、すべての断片が、呪われたパズルとして完成した。
ピンクの親切。寝たふりの指示。周囲の男たちの狂信的な捜索。そして偽の駅での「さあ、着いたぞ」という言葉。終点のはずの車内に、まだ人が残っていたことも含めて全部が繋がった。
すべては、僕たちの意識をバッグから逸らし、車内では味方を演じてピンクを隠匿し、僕たちを速やかに列車から排除するために構築された、完璧なまでの「劇団インド」だったのだ。
これまで常に冷静沈着な聖者のようだったサラガミが、深夜のファリダバード駅、果物屋の目前で、ついにその内面を崩壊させた。
「インド人全員、ぶっ殺す」
前を見据えたまま、肺腑の底から絞り出された、地響きのような咆哮。
「サラガミ、落ち着いてくれ」
「十三億人、全員だ」
セブで出会い、アジアを共に彷徨ってきたこの男は、常にしっかり者で、不条理をも笑って流す、僕の真逆を行く完璧な人間だった。そんな男を、一瞬で「破壊神」へと変えてしまう。
それが、この国の持つ底知れぬ魔力だった。

再びチケットを買い直し、本物のデリーの宿に辿り着いたのは深夜零時を回っていた。
エントランスには、睡眠薬で身ぐるみ剥がされたという全裸の男が、抜け殻のように転がっていた。
「まあ、あいつよりは、マシか」
サラガミが吐き捨てたその言葉には、もはや慈悲の欠片も残っていなかった。
僕たちは、最悪の形でその門を潜った。これがデリーなのだとしたら、もう十分だった。

よくある景色

深夜零時。僕たちがデリーの日本人宿「サンタナ」に滑り込んだのは、閉門間際のことだった。

エントランスのタイルには、一人の若い男が糸の切れた人形のように転がっていた。裸体は、睡眠というより処理済みの廃棄物に近かった。

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「この方は、何かの修行中ですか」
僕の問いに、受付のスタッフは事務的な手つきで台帳を繰りながら答えた。
「ああ、彼。睡眠薬入りのチャイで、荷物も服も全部持っていかれちゃって。警察が『これ、日本人だろ』って放り投げていったんだよ。まあ、インドじゃよくある景色だね」
よくある景色。それで片付けられてたまるものか。
隣で全財産をピンク色の男に収奪されたサラガミが、幽鬼のような声で呟く。
「俺も、服以外全部ないんです。パスポートも、金も」
「ああ、そう。じゃあ、これ大使館と警察の地図ね。明日行ってみれば」
スタッフの慣れきった対応に、僕たちは自分たちが「よくある景色」の一片に過ぎないことを思い知らされたのである。

案内されたドミトリーは、被害報告の集積所だった。
同室の男は、ダラムサラでゲイに襲われた惨劇を、最高のネタとして哄笑しながら語る。
「あれ以来、ベルトして寝てるよ。寝心地よりケツの方が大事」

隣の女子部屋からは、 下着の会社で働いていたという女が遊びに来ていた。
「わたしさ、インドに来てから毎日パンツ盗まれて。もう二枚しか残ってないから本当に困ってる」
パンツを売って稼いだ金で買ったパンツを盗まれる。
ずいぶん律儀な循環だった。

遅れてそこに現れたアホミは、さらに別格だった。
彼女は、インド旅行をしてはいけない人種の特徴が見事に揃っていた。
可愛くて、頭が軽くて、人を疑わない。
しかし、彼女のこの五日間は、デリーに辿り着くまでの道程として、我々のそれを軽く凌駕していたと言っていい。

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コルカタから入国した彼女は、早々に話しかけてきたインド人に流されるまま行動を共にし、本来向かうはずだったバラナシとは正反対のプリーへと連れて行かれていた。気づいた時には、もう戻る理由も体力も削がれていたらしい。仕方なくそのままプリーに滞在していると、今度はその男の家に泊められる流れになり、やがて度を越えたセクハラに耐えかねて、彼女は逃げるようにコルカタへ引き返した。
「もう電車は無理だ」と判断した彼女は、飛行機でデリーへ飛ぶことを決意する。しかし、その直前にもう一撃が待っていた。空港へ向かう途中、タクシーの運転手に言われるがままATMに立ち寄り、操作方法を尋ね、あろうことか暗証番号を教えてしまったのである。結果、カードはそのまま持ち逃げされ、約十三万ルピー、日本円にして二十万円近くが綺麗に消えた。

そして、彼女は今、笑っている。
僕とサラガミはその話を聞きながら、しばらく言葉を失っていた。それから、心のどこかで、妙な安心感がじわりと広がるのを感じた。
「なんで怪しいインド人の家なんかに泊まったの」
サラガミの悲痛な問いに、彼女は首を傾げて答えた。
「だってぇ、すっごく優しいパパ、って感じだったんだもん」
絶望的なまでの無防備。
クールを自処するサラガミですら「可愛いな」と独り言を漏らすほど、彼女のアホさは、もはや一つの才能だった。僕は、サラガミのこの失言を記憶の最深部に刻み込んだ。今後万が一、彼と決定的な喧嘩をした際には、この発言を帰国した彼の彼女、パツコへリークしてやるつもりだ。

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「俺は特に何もないわ。膝だけ」
宿には、訪問国百ヶ国を超える旅のプロ、ヒザミズ氏という男が沈没していた。
膝に水が溜まり、立ち上がるたびに「アイタタタ」と顔を顰める三十五歳の彼は、デリーの変わらぬ姿を愛おしそうに眺めていた。
「七年ぶりやけど、なんも変わってへん。十年後も、肥溜めのまんまやで」
その言葉には、数多の国を股にかけた者特有の、諦念を帯びた説得力があった。

翌朝、サラガミとATMに行く。一畳ほどの小部屋で金を下ろし、一万ルピーを彼に渡した。
「本当にすまない」
「返さなくていい。さあ行こう」
人に金を貸したことのない僕にとって、それは少しばかり気分のいい行為だった。
だが、慣れないことはするものではない。
外に出た瞬間、僕は足元の牛の下痢を踏み抜いた。滑って仰向けに転び、背中までべっとりと汚れる。
この悲惨さを笑いに変えようと「クソ」と叫んだ。

だが、サラガミの姿はすでになかった。
人の流れに飲まれ、きれいに消えていた。
「嘘だろ、サラガミ」
僕は片足を糞に突っ込んだまま、周囲から糞でも見るような目で静かに眺められていた。
立ちあがろうと、手を後ろに回したその時。右手に触れたのは札束だった。
ATMの目の前だ。誰かが落としたものに違いない。
一万ルピーを渡し、糞にまみれ、友が消えた瞬間に大金を握る。
判断が追いつかなかった。
糞まみれの五百ルピー札の束。ざっと四、五万ほどある。僕は咄嗟にそれポケットへ突っ込み、宿へ帰った。

宿の手前でスタッフを呼び止め、バケツに水を持ってこさせた。嫌な顔はされたが、廊下を汚されては困るのだろう。すぐに持ってきた。
少し遅れて、サラガミがタオルを持って現れた。
「いやあ、戻ってきてくれてよかった。はぐれたかと思ったら、糞まみれだし。はは、とりあえず拭きなよ」
僕は、さっきのことを思い出さないようにした。あの時、たった一万ルピーで逃げたのではないか、と一瞬過ったのだ。
僕は、ポケットの中に手を入れた。
贖罪にも似た気持ちで、まだ湿ったままのそれを取り出し、サラガミの方へ差し出す。
「これ、さっき拾った」
サラガミは一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに察したように目を細めた。
札束の端には、まだ汚れがこびりついている。
「どうするかは、任せる」
彼は軽く鼻で息を抜きながら、それを受け取った。
「とりあえず、警察だな」
それを聞いて、ようやく息がつけた気がした。

僕がシャワーを終えると、サラガミ、アホミの付き添いで大使館へと向かった。
捕まえたトゥクトゥクの運転手が片道四百五十ルピーという法外な値段をふっかけてきた際、事件は起きた。
僕たちが「アーグラーではこうだった」と理詰めで交渉しようとした矢先、アホミが運転手の体にスリスリと身を寄せたのだ。

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「おじさぁん、百にしてよ。往復で。お願い」
運転手の顔が、一瞬でデレデレと蕩けた。
「んんん、いいでしょう」
いいでしょう、だと。
結局、一人五十ルピー、計百五十ルピーとなった。
「これだから女は恐ろしい」
論理を粉砕し、欲望を直撃するアホミの女子力。それはインドという魔界において、最も有効な通貨だった。

大使館で突きつけられた現実は、想像以上に重いものだった。パスポート再発行にはポリスレポートが必要とのことだった。
僕たちは大使館からデリー駅前の交番に向かったが、そこにいたのは公務という言葉を辞書から抹消したような、怠惰な男たちの群れだった。
「電車内ね。デリーじゃないなら無理だ。ファリダバードに行け」
サラガミの切実な訴えを、警官は噛みタバコの葉を撒きながら一蹴した。
「インド人は盗みなんてしない。お前が不注意なのが悪い。帰れ」
論理も情熱も通じない壁。
しかし、アホミが「コルカタでカード盗まれちゃってぇ、涙目なの。見て。」と、潤んだ瞳で上目遣いをした瞬間、壁は崩壊した。
「そうか、大変だったね。さあ、これに記入して。明日にはできるからね」
「マジで言ってるのか、この男は」
サラガミが、そして僕が、驚愕と怒りで言葉を失ったのは言うまでもない。
ポリスレポートを拒否され、説明を求めるサラガミに対し、警官は急に耳が聞こえなくなったかのように、完璧な無視を決め込んだ。
「おい、聞こえるか。俺はアーグラーとデリーの間でやられた。だが、それはデリーじゃないからダメだ、とあんたは言う。でも、可愛い女の頼みならコルカタでも即受け付ける。コルカタなんてガンジスの排水口だぞ。その距離感、どうなってる」

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無視である。ただジロジロと、見ているだけで気味が悪い。
何を言っても、視界にすら入れてもらえない。その徹底した断絶に、サラガミは怒りを通り越して乾いた笑いを漏らすしかなかった。
「ふふ、おい。聞こえないわけないでしょうが」
目を閉じて微動だにしない警察。
被害届を出す。この国はこんなものにまで難易度が存在する。手順の問題じゃない。相手がやる気かどうか、それだけだ。

僕たちは諦めて、交番を出た。アホミは、いつも通りの顔をしている。
サラガミはしばらく動かなかったが、やがてポケットから札束を取り出した。それを一度だけ眺め、親指で端を弾く。
「どうせ、汚れた金だ」
それだけ言うと、ポケットに押し込んだ。

「サラガミ、結局ダメやったか」
ヒザミズ氏の問いに、サラガミは静かに頷いた。
「インド人に嫌気がさしました。もう、俺、ここに残る気力はありません」

親に連絡し、戸籍謄本を取り寄せ、連日あのクソったれな警察に通い詰めた四日間。
それでもパスポートの再発行は叶わなかった。
チケットの確保からルートの選定まで、その明晰な頭脳で僕を導いてくれたサラガミとの旅路が、ここで唐突に終わりを告げる。
「シン、せめて一緒にゴールしたかったけど」
僕は、とりあえず頷いた。
彼がいなくなる。その事実は、単なる別れの寂しさを通り越し、僕の足元を底なしの不安で侵食していった。これまで、どれほど彼に寄生していたかを、今さらながら痛感する。サラガミという羅針盤を失った僕は、明日から、この狂った国を一人で歩かねばならないのだ。
それは、真っ暗な嵐の海へ、手漕ぎボートで漕ぎ出すような絶望的な心細さだった。
一人。その事実だけが、ズル剥けになったアキレス腱の痛みよりも深く、僕の心を抉り続けていた。

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嘘は商法、彼らは現象

早朝、別れを告げてホステルを出た。目的地はジャイプル、俗に「ピンクシティ」などと色めき立った呼称で呼ばれる街である。
前日のうちに切符は手配済み、出発は午前七時。駅までは十五分もあれば事足りるのだが、予定の一時間以上前に行動を開始しなければ気が済まないという、僕の浅ましい臆病さが五時五十分という異常な時間に僕を街へ放り出した。

早朝のニューデリー駅は、もはや巨大な雑魚寝の合宿所と化していた。地べたを埋め尽くす無数の人体。その間を縫って乗り場へ向かうと、さっきまで死人のように転がっていた男が、驚くべき俊敏さで這い出してきた。その動きは、獲物を見つけたトカゲのそれである。

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「やあ、俺、駅員なんだけどさ。チケット見せろ」
「嘘をつけ。あんたさっきまでそこで寝ていただろう」
鼻で笑い、その手を振り払おうとした。だが、男は豹変した。僕の胴体をバックパックごと羽交い締めにし、逃がさぬよう鉄鎖のごとき蛮力で拘束したのだ。男の体温が生々しく伝わり、生理的な嫌悪が脊髄を駆け上がる。
「待て。チケットを確認できないと通せない。ルールだ」
「まず、離してくれないか。ずいぶんと臭う。もちろんカレーの」
僕たちの真横を、何人ものインド人が平然と通過していく。彼らはチケットどころか、衣服すらまともに纏っていないじゃないか。
「おい、あいつらはいいのかい」
日本でドライバーをしていた二年間で、僕は十回は駐禁切符を切られた。その際、僕が必ず吐く言葉だ。奴らの節穴の目は、黒塗りのメルセデスのような、いかにもな車両が見えない。このあからさまな詐欺師も、地元民が見えない。
「ほら、ジャイプル行きだ」
渋々チケットを差し出すと、男はこれ以上ないほど胡散臭い表情で告げた。
「むむむ、あぁ、これね。はいはい。今日のこの便、キャンセルになったんだよね」
「う、嘘くさい」
頭上では『JAIPUR 7:00』の文字が、嘲笑うかのように鮮やかに躍っている。
「モニターに出てるだろ。列車は来る」
「ダメだダメだ。インドはセキュリティが厳しいんだから。有効なチケットを持った人しか入れないよ」
嘘が透けて見える。いや、丸見えである。
この男の言う「セキュリティ」とは、おそらく「いかに効率よくカモを捕獲するか」という独自の経済用語なのだろう。
隙を突こうとすれば仲間が二人増え、肉の壁となって進路を阻まれた。
「二階の外国人受付へ行け。そこで時間を変更してもらうんだ」

二階へ上がると、当然ながら窓口は閉まっている。そこに、まるで僕が階段を上がるのを予知していたかのような男が立ち上がった。
「おぉ、来たか。俺、駅員なんだけどさ。街の受付なら開いているから、政府公認の慈悲深きタクシーで案内してやるよ。あれに乗れ」
彼らはまず「俺、駅員」と必ず言う。独自のマニュアルが感じられる。
指さされた車はボコボコにボディが凹み、タイヤは四本とも違うモデルのものが「一か八か」はめられている。その運転手らしき者は、そんな盗難車と拾ったゴミクズで走っているような車を従えて、第一声に「俺、運転手、政府公認の」とでも言うのだろうか。
絶対に乗りたくなかった。だが、荷物を引っ剥がされ、タクシーに積まれ、チケットという名の人質を握られた僕は、不条理の濁流に呑まれるようにして車内へ押し込められた。
「これから、外国人受付へ行く。俺、ラルフ」
知るか。

二十分後。連れて行かれたのは、コンノートプレイス。迷宮の最深部の怪しげな旅行会社だった。

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奥のオフィスには、巨大な腕時計を巻き、「俺こそが野心の塊である」と全身で宣言している男が座っていた。
「列車は全部売り切れてるね」
「ほら、これが証拠ですよ」と言わんばかりに、男はエクセルシートを突きつけてきた。中身は、見え透いた嘘の羅列だ。だが、それ以前の問題だった。公式のサイトなら、僕は毎日見ている。男はマウスをカチカチと動かしているが、ポインターは一切動かない。
何もかも手作りで、雑。この固定された粗末な画面で、本当に人を騙せていると思っているのだろうか。
「だが安心しろ。うちが用意している政府直轄の聖なるバスなら、ホテル付きで一万九千ルピーで行ける。君はラッキーだね」
一万九千ルピー。日本円で三万円。元々のチケットは千円。インドでは、政府という言葉は「法外な金額を請求するための魔法の呪文」として機能すると信じられている。

「考えさせてくれ」
僕はもらった名刺を店先に打ち捨て、タクシーへ戻った。
わかっていた。最初から詐欺なのがわかっていた。なのにどうして、僕はこうも無力に流されたのか。
バンコクからカンボジアへの陸路移動が頭をよぎった。あの時も欺かれているのが最初からわかっていながら、何もできなかった。だがあちらは国営バスという大きな歯車によるお約束の徴収だ。
しかし、今回のこれはなんだ。生々しい「肉」の、民間の温度がある独創的な悪意じゃないか。工場のように旅行者を捌くカンボジアと違い、こっちは「僕」という一個の肉体を執拗に狙っている。その感触が、肌にべったりと張り付いた。
「駅へ行け。飛ばせ」
時間は六時三十五分。駅までは車で二十分。まだ間に合うはずだ。
「なんで。チケットは無効だよ」
「まだ言ってんのか。お前ら全員でグルなんだろう。外国人受付だと言ってここに連れてきた。嘘つきめ」
僕が発言した瞬間、車内に沈黙が落ちた。
我々日本人は、嘘を「悪」と定義するが、インドにおける嘘は「商法」と「娯楽」の汽水域に位置する。
ゆえに、事実を指摘された瞬間、彼らのプライドの導火線に火がつくのだ。ドライバーは「は、信じられない。まさか、俺のことか。失礼すぎるだろう」とでも言いたげな、意味不明な神妙さで黙り込んだ。
彼はそのまま無言で車を走らせていたが、駅の目前、五分前という絶望的なタイミングで路肩に車を停めた。
「タクシー代、往復で千ルピー払え。今すぐだ」
「いやいや、無料って言ってたじゃないですかぁ。話が違うよ。勘弁してよ。わははは」
なんてやり取りにはもう飽きた。
「払うかよ、ボケ」
僕は日本語で怒鳴り散らし、トランクから荷物をひったくって逃げた。
駅へ着いたのは七時過ぎ。列車は既に出ただろうが、一縷の望みをかけて足を踏み入れると、あの偽駅員一号と再会してしまった。
「ジャパニ、ジャパニジャパニジャパニジャパニジャパニジャパニジャパニジャパニジャパニジャパニジャパニ」
男は指を差して叫び、鬼の形相で怒っている。先程のドライバーが連絡したのだろう。駅に戻ることすら読まれていたのだ。
三人の男に追いかけられ、僕は全力で疾走した。バックパックを背負い、体の痛みをアドレナリンでねじ伏せながら走った。

メインストリートのパハールガンジへ逃げ込み、なんとか撒いた。
インド人の朝は早い。もうすでに通りは人の海だ。
元の宿へ戻ったが、鉄のシャッターは冷たく閉ざされたままだった。
「一人になった瞬間これか」
雨が降ってきた。路地の隅、野良犬が三匹、僕を品定めするように眺めている。
すると、路地の外からあいつの声が聞こえてきた。
バン、ババン。
車のドアが閉まる音。三人分だ。そしてヒンディー語の罵声がうっすら聞こえる。
「ジャパニジャパニジャパニジャパニ」
近くにいる。見つかれば終わりだ。
僕は雨に打たれながら、一時間以上、石像のように固まって息を殺し続けた。
午前八時三十分。シャッターが開き、僕は泥のように中へ滑り込んだ。
「あれ、まだおったんや」
ヒザミズ氏が呆れたように笑い、アホミが「あー、戻ってきてるぅ」と、脳細胞の一切を弛緩させるような声を上げる。
「シン、何やってんだよ。やっぱり俺がいないとダメだな」
現れたサラガミの、いつも通りの、しかし今は神の福音のように頼もしい苦笑を見て、僕は不覚にも泣きそうになった。
結局、僕はチケットを「オールドデリー駅発」で買い直し、再出発を期した。ニューデリー駅には、もう二度と近づきたくなかった。

夕刻。人力車に揺られながら、僕はゆっくりとオールドデリー駅へ向かった。
もはや、どうだってよくなった。
恐怖という感情は、一定量を超えると鮮度を失い、ただの面倒な事務手続きのような質感に変わる。
インド人と正面から向き合い、その誠実さの欠片を探そうとする努力も、雨に打たれたメインバザールの泥濘に捨ててきた。
愛想が尽きたのではない。ただ、彼らという「現象」を、重力や湿気と同じレベルで受け入れることにしただけだ。
デリーは、バックパッカーが最初に人間をやめる場所なのかもしれない。
ここでズタボロにされ、人間への期待を塵芥のように捨て去った者だけが、ようやくこの街の本当の景色を眺めることができるのかもしれない。
僕は人力車の心地よい揺れに身を任せ、鉛色の空を見上げた。
そこにはもう、何の期待も、何の怒りも、残っていなかった。

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