旅人失格 第十六章 「肉の荒廃、ヒロシと順調な旅の正体」コルカタ、バラナシ、アーグラー
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肉が必要だ
バンコクで「入国を拒否される猛者が続出している」という不穏な噂を聞いていた。石橋を叩き割る勢いで警戒していたアライバル・ビザ。しかし、コルカタの地を踏んだ我々を待っていたのは、拍子抜けするほど事務的な手続きだった。
書類を差し出し、役人の気だるげなスタンプの音を数回聞いて終わった。
「三十日だ。行け」
数日前から「アライバル・ビザ 失敗」「インド 入国拒否 末路」といった不吉な文字列を網膜に焼き付け、入念にシミュレーションを重ねてきた僕の緊張感は、行き場を失った。
「楽勝だったな。さあ、行こう」
意気揚々と胸を張る僕に対し、相棒のサラガミは、どういうわけかインドの土を踏んだ瞬間から、目に見えて生気を失っていた。
彼はオーストラリアで二年の歳月をワーキングホリデーに捧げた、いわば海外生活の猛者である。だが、彼のサバイバルは羊が群れをなす長閑な田舎町に限定されていた。
そんな彼にとって、コルカタの空港に蠢く、彫りの深い、そして何より、ギョロ目の無表情で、微動だにせずこちらを凝視するインド人たちの群れは、未知の生態系の投棄に等しいようだ。
彼は、その独特の体臭と、視線の暴力に、開始一時間で完膚なきまでにノックアウトされていた。
僕たちは予約していた宿へ向かうべく、一台のタクシーを捕まえた。
するとどうだ。運転席にドライバーが座るのは当然として、なぜか助手席に見知らぬ、そして何ら説明の義務を感じていない風体の中年男性が、当然の権利であるかのように乗り込んできたではないか。
「このおっさん、誰なんですか」
僕の正当な抗議に対し、ドライバーは歯を見せて笑った。
「ノー・プロブレム」
出た。インド三千年の歴史が育んだ、万能の呪文。
コルカタの空港を出た瞬間、肺を焼いたのは、酸素ではなく粒子状の混濁だった。
湿り気を帯びた熱風には、焦げたゴムと、腐敗したスパイスと、何者かの排泄物が渾然一体となった、濃厚な死の予感が混じっている。
僕たちは、今にも空中分解しそうな黄色いアンバサダー・タクシーに、バックパックを握りしめて滑り込んだ。
「サダルストリートまで」
その一言が、混沌のただ中へ向かうための注文書となった。
タクシーが走り出す。車窓から流れ込んできたのは、想像を絶する光景、というよりは、視神経をぶっ叩くような、あらゆる終わりの集積だった。
ゴミ。ゴミ。ゴミ。ゴミ。ゴミ。
視界の端から端まで、世界は執拗なまでの廃棄物で埋め尽くされている。
赤や青のプラスチック片、原形を留めぬ発泡スチロール、潰れたペットボトル。それらはまだ「かつて製品であった」という記憶を留めている。だが、路傍に堆積するあの黒ずんだ、粘り気のある塊の領域は一体なんだ。灰色と黄土色が混ざり合い、泥でも布でもなく、ただ腐敗という概念が固形化したような正体不明の物体。
その中になぜ、重力に逆らうように本の山が築かれているのか。なぜ、大量の傷んだレモンと、大量の潰れた革靴が無造作に散らばっているのか。
そして、その地獄のパッチワークの真横で、喉を切り裂かれた山羊の死体が、乾いた血に塗れて放置されている。その死体から一メートルの距離で、男が平然と揚げ物を売り、人々がそれを貪り食っている。
不潔、という言葉はここにおいて死んだ。
これは、衛生観念という名の巨大な意志を持った化け物が、この国を丸呑みにし、その胃の中で消化不良を起こして吐き出した極彩色の嘔吐物だ。

僕は、そのあまりの徹底した荒廃ぶりに、もはや「感動」という低質な言葉しか見つからず、引き攣った笑いを止めることができなかった。
その腐敗の温床には、この世のあらゆる生が、醜悪なまでの平等さで群がっている。
犬、豚、山羊、牛、猿、烏。
そして、それらと全く同じ目つきをした人間たちが、ひとつの生態系として、コルカタの街に跋扈している。
東南アジアで培ったはずの僕の耐性など、ここでは耳糞ほどの重みもない。これは不潔の次元ではない。人間が生きるために切り捨ててきた「汚れ」を、すべて飲み込んだまま、なお心臓を動かし続ける化け物の鼓動そのものだ。
空港から伸びる高速道路が緩やかなカーブを描き、街の深部へと刺さっていく。高架から見下ろす民家の脇には、腰の高さまでゴミが何層にも積み重なっていた。
かつてはダークグレーのアスファルトであったはずの道路は、無数のゴミによってコーティングされ、新たな地質学的な層を形成している。もはや掃除をするなどという行為は、神の創造物に手を加えるような野暮であり、冒涜にさえ思えた。
『AKIRA』が描いた荒廃ではない。
『ニューロマンサー』が予感させた電脳の幻でもない。
こっちは本物だ。荒廃には肉が必要なのだ。
ここの人間にとって、ゴミは「捨てるもの」ではない。生活と一体化した必需品であり、肌に触れる衣服であり、共に眠る死骸なのだ。あらゆるものが、この街にそのまま受け入れられている。
日本の十倍以上の人口。数だけでいえば、こちらこそが人類の本流である。
その暴力的な事実を前に、僕の脳内の化学回路は、この街の毒素を触媒にして、グチャグチャに溶け落ちるようなショートを起こしていた。
「凄すぎる。これまでのアジアとは、何もかもが比べ物にならない」
アドレナリンだかドーパミンだか、あるいはこの街の毒素だか判らぬ液体に酔いしれ、僕は震える声でそう呟いた。
しかし、僕の隣でサラガミは、目から別の汁が出そうなほどに肩を落としていた。
彼の魂は今、この汚濁の海を離れ、南半球ののどかなバナナ農園へと、命がけの逃避行を試みていた。
僕はその横顔を見ながら、自分たちがこの巨大な「胃袋」を構成する、たった一粒の寄生虫に過ぎないことを、強烈な快楽と共に確信していた。
早朝七時。高層ビルの十階に位置する宿は、僕たちを温かく迎え入れてくれた。
「今夜、バラナシへ向かっちゃえば」
インド一周という、僕らの無鉄砲な計画と、ビザの三十日という制約を案じた管理人の助言に従い、その日のうちにコルカタを脱出することを決意する。
夜までの数時間、僕は未だ元気のないサラガミを連れて街へ出た。
路上では、男たちが平然と全裸に近い姿で水浴びをしていた。なぜ路上なのか。なぜこの公衆の面前で、石鹸の泡を立てる必要があるのか。
「我々も最悪、あれですな。サラガミよ」
彼はふふっと笑ってその光景を写真に収めていた。
さらに進めば、牛が神聖なる歩みを刻んでいる。
ヒンドゥーの神として、ある者は道端で恭しく首を垂れ、その進路を譲る。しかし、ひとたびイスラム教徒の居住区へ足を踏み入れれば、神としての権威は霧散し、ただの「邪魔な巨漢」へと成り下がる。
バチン、バチン。
乾いた音が響く。
男が牛の尻を、一切の迷いなく叩き飛ばしていた。信仰の対象をただの鈍重な肉塊として扱うその男は、おそらくアッラーに祈りを捧げる側なのだろう。
一歩歩けば神として跪かれ、もう一歩歩けば肉の塊として罵倒される。
この、信仰と現実が凄まじい密度で交錯し、矛盾したまま放置されている「インドという巨大な冗談」の構図に、僕は思わず吹き出しそうになった。
「インドはでっかいゴミ箱だから」
額に真っ赤な印を刻み、裸体に薄汚れた布だけを纏った男が、慈愛に満ちた声でそう教えてくれた。
男は道端で野糞でもひり出すような無防備な体勢で、自らのペニスをだらしなく地面へ垂らしながら、まるで宇宙の真理でも語るかのように誇らしげに言ったのである。
その男の股間から覗く無造作な肉塊と、語られる壮大な「ゴミ箱理論」。
ゴミを掃除するカーストの仕事を守るため、あえてゴミを捨て続ける。その、倒錯した優しさと停滞が共存する論理。
清潔であることよりも、役割があることの方が尊いとされる世界。僕は、自らの価値観が音を立てて崩壊していく快感に浸っていた。
夜、同じ宿にいた、カメラに命を懸ける日本人旅行者、サダヲと意気投合し、再会を期して宿を後にする。
牛の糞を回避し、野犬の鋭い視線をかわし、迷路のような路地を抜けて駅へと辿り着いた。
深夜のコルカタ駅は、人類の展示場だった。
足の踏み場もないほどにひしめく群衆。一秒でも気を抜けば列に割り込んでくる、驚異的な厚かましさ。僕は、前の男の背中に腹をくっつける勢いで密着し、インド人のパーソナルスペースという名の聖域を逆手に取って、チケットを捥ぎ取った。
僕らが乗り込んだのはSLクラス。三段寝台・エアコンなしの無難な席を選んだ。
寝台とは名ばかりの、パイプ椅子を彷彿とさせる硬質な板。天井からは二本の貧弱な鎖が垂れ下がり、寝相一つで奈落へ転落することを予感させる。
サラガミは二段目、僕は三段の最上部に陣取ったが、剥き出しの天井が迫る圧迫感と、転落への恐怖で、十三時間の旅路は一睡もできぬ苦行へと変貌した。
夜明け、トイレに立とうと梯子を降りた僕を、さらなる悲劇が襲った。
「サンダルがない」
マレーシアで購入し、幾多の国を共にしてきた愛着のあるビーチサンダルが、忽然と消えていたのである。代わりにそこにあったのは、誰の所有物かもわからぬ、ボロボロに擦り切れた茶色のスリッパであった。
インドの便所において履物がないことは、素手で溶岩を掴むに等しい。
仕方なくその腐敗したスリッパを拝借し、地獄のようなトイレを済ませて戻ると、向かいの席の親父が僕を指差して怒鳴り始めた。
「おい、それは俺のスリッパだ。返せ」
見れば、その親父の足元には、見覚えのある僕のサンダルが鎮座していた。
僕は言葉を飲み込み、黙ってサンダルを履き直した。いや、これは盗難ではない。インド代表との、熱きユニフォーム交換であったと解釈することにした。
予定を二時間超過し、十五時間の末に列車はバラナシへ滑り込んだ。
疲労が身体を包んでいたが、不思議と心は昂っていた。
サラガミも、ようやくインドの空気という名の毒に馴染んできたようだ。
僕はインドへの不安よりも、頼りにしていた男が落ち込んでしまっていることへの不安が大きかった。セブやカンボジアで見せた彼の判断力と振る舞い、また、彼が培ってきた英語力を僕は頼りにしていたのだ。
「一ヶ月、生き延びられるかな」
「無理そうなら、すぐにタイへ逃げよう」
僕たちはそう誓い合い、牛の糞が点在するバラナシのプラットホームに降り立った。
混沌の本番は、これからである。
バラナシヒロシ

駅のホームに降り立った瞬間、肺に流れ込んできたのは、牛の排泄物と焦げた香辛料、そして生と死が未分化のまま煮詰められたような、強烈な空気だった。
アライバル・ビザという時限爆弾を抱えた僕たちの当面の課題は、次の目的地、アーグラーへの切符を確保することだ。
駅の外国人専用窓口へ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
一人の日本人青年が、受付のインド人職員に対し、聞いているこちらが赤面するようなカタカナ英語で罵声を浴びせていたのである。
「ファック。アイ、トレイン、ゴー。チケット。バイ。ファック。インディア。マネー。アイ、ペイ、マネー。ファーック」
あまりの横柄さに、職員も困惑を通り越して仏のような無表情を決め込んでいる。
「なにあいつ。聞いてるこっちが恥ずかしいよ」と英語堪能なサラガミが眉をひそめる。
同族嫌悪に近い不快感を覚えつつ、僕らは事務的にチケットを購入して外へ逃れようとした。ところが、何を勘違いしたのか、そのファック連呼野郎が当然のような顔で僕たちの背後についてくるではないか。
「宿探すんですよね。さあ、行きましょう」
誰がお前と共に行くと決めたのか。
だが、彼を一台のトゥクトゥクに押し込めば、一人当たりの運賃が安くなるという、旅人の卑しい計算が働いてしまった。
道中、彼は車窓の外の貧民に向けて「リアリーダーティ。ファックインディア」と高笑いする。
本当は誰に向けてそれを言っているのか。もちろん同胞である僕とサラガミだ。
この手の振る舞いは見え透いている。
異世界といっても過言ではないこのバラナシでも、全く萎縮しない乱暴な俺を見ろ。
義務教育を飛び越えた俺の英語を見ろ。そう顔に書いてある。
その醜悪な虚勢に、僕とサラガミは目配せひとつで無言の合意に達した。
「こいつと仲間だと思われたくない」
街に着いた瞬間、ファックの肩を叩いて言った。
「予約してる宿があるから」
僕らは適当に金を握らせ、トゥクトゥクから飛び降り、彼を喧騒に置き去りにした。
「すまぬ、若者よ。我らはお主が嫌いである」
心の中で毒づき、駆け出したその刹那。
昨日、電車内でインド代表と一度ユニフォーム交換を果たした例のサンダルが、限界を迎えて無残に爆ぜた。僕は裸足で、バラナシの聖なる大地を踏みしめた。
宿探しの前に、まずは履き物を確保せねばならない。
近くにあった露店で、僕は一足のサンダルを新調した。これまでの薄っぺらなビーチサンダルとは一線を画す、マジックテープでかかとを固定できるハイテクな代物である。
「これだ。このサンダル。超すごい。歩きやすい。ウホ」
文明の利器を手にした原始人の如く、僕は意気揚々とバラナシの路地裏へと踏み出した。
しかし、その歓喜は五分しか持たなかった。僕の両足のアキレス腱あたりから、じわりと温かい液体が滲み出してきたのである。
「ウホ(痛い)」
良かれと思って購入した「ちょっと良いサンダル」は、僕の柔弱な肌を容赦なく削り取る、歩行型拷問器具だったのだ。
宿に辿り着いた頃には、僕のかかとはズル剥けの無惨な姿を晒していた。
日本で良質なサンダルを買ってこなかった己の慢心に、僕はただ咽び泣くしかなかった。
バラナシの街は、狂気的な迷路である。
人がすれ違うのが精一杯の細い路地に、巨大な野良牛が平然と鎮座している。彼らはヒンドゥーの神として崇められているため、誰も彼らを退かそうとはしない。
その巨大な身体を避けて通ろうとすれば、足元には例外なく彼らの「神聖なる落とし物」が、地雷原のように点在しているのである。
そんな迷路を彷徨っていると、「勝負のガイド」が湧いてきた。
「コニチワ、ニホンジン、ホテル、トモダチ」
靴擦れの激痛で余裕のなかった僕は、彼を完全に黙殺し、激安の「ゴールデンゲストハウス」へと逃げ込んだ。するとガイドもどきは「俺が案内したからチップをよこせ」と、教科書通りの要求を突きつけてくる。
宿のスタッフに一喝され、泣きそうな顔でトボトボと立ち去る哀れなもどき。
その背中を、サラガミが追いかけていった。彼は無言で十ルピーを彼の手に握らせて戻ってきた。
「なんという、慈悲深い男か、サラガミ殿」
僕はアキレス腱を痛めながら、相棒の優しさに一瞬だけ救われたような気がした。
腹が減った。
コルカタから何も食べていない僕たちは、宿の食堂で、無難そうな洋食を注文した。インド料理の洗礼を浴びる前に、胃袋を慣らそうとしたのである。
だが、運ばれてきたのは、僕たちの想像力を絶する異物の数々であった。
餃子の皮よりも薄く、救いようのないピザ・マルゲリータ。
未知の昆虫の出汁を感じさせる、緑色のトマトスープ。
プラスチックを溶かして練り込んだような香りのチーズトースト。
プラスチックが混入していたバターピラフ。
「やつら、これの作り方を知らないんだ」
イメージと記憶だけを頼りに錬成されたであろう料理に、僕たちの箸、あるいはフォークは止まった。
しかし、注文し直した何の変哲もないカレーは、驚くほどに絶品であった。
この国では、インド料理以外を食すことは、自ら不条理に身を投じるに等しい。僕たちは、今後の食生活をカレー一択に固定することを、固く誓い合った。

宿で「バラナシー、ヒーロシー」と叫ぶだけのガイド、ヒロシに出会った。
本名はヒロッセェのような名前だが、日本人相手にはヒロシで通している。
彼は「ガイド代は無料、代わりに自分の店を見てくれ」という、いかにも怪しげだが憎めない提案をしてきた。僕たちは彼とガンジス・ボートの約束を交わし、まずは自力でガンジス川を拝みに行くことにした。
「興奮して来たね。僕は勢い余って飛び込むかもしれない」
「ははは。俺なんか入る気満々で、海パン履いてるからね」
僕たちは、バックパッカーの聖典に必ず記されている「沐浴」への淡い憧れを抱きながら、川岸、すなわちガートへと辿り着いた。
そして、目の前の光景に絶句した。

川面を漂うのは、溢れんばかりのゴミ。人、汚水、そしてゴミ。
さらにその脇を、何事もなかったかのように何かの死骸が、ぷかぷかと、そして優雅に流れていくではないか。
「これはこれは、穏やかじゃない」
僕は、先ほど新調したサンダルによって形成された、生々しいアキレス腱の傷口をサラガミに見せた。
「ほら、僕、怪我してるじゃないですか。破傷風とかになったら困るでしょう。今回は、やめておこうかな」
「そうだね。俺も、ちょっと、ね。ほら、筋肉痛だから、やめておくよ」
僕たちは、あっさりと聖なる川への入水を諦めた。
崇高な宗教心も、バックパッカーの虚栄心も、川が放つ圧倒的な現実の前では、露となって消えるしかなかった。
「バラナシィー」(せーの)「ヒーロシー」
このどうしようもなく粗い、しかし破壊的な中毒性を持つコール・アンド・レスポンスのみでバラナシの裏路地を支配する男、それが日本人専門ガイドのヒロシである。
彼は「地球の歩き方」を聖書のように掲げ、「ボク、ノリタイ」と叫びながら、我々を無料ガイドの深淵へと誘う。
彼が説くガンジス川の真実は、僕たちが抱いていた聖なる川の幻想を無慈悲に粉砕していった。
ヒンドゥー教徒にとって、川沿いの階段での沐浴は体を洗う風呂ではなく、罪を洗い流す儀式である。だが、現実の川面は、そんな精神性を嘲笑うかのように濁り、淀んでいる。
上流から流れてくるのはこの世の全てだ。家庭排水、下水、そして文字通りの死体。薪を買えない貧困層は、遺体をミディアムレアの状態で川へと託す。
「川の水が臭い」
水量の豊かな大河が明確に臭うという事実は、その汚染がもはや修復不可能なレベルに達していることを示唆していた。
僕は、糞を垂れ流した赤ん坊の尻を川の水で洗う母親の姿を、遠い目で見つめていた。

夜八時。ヒロシの案内で、僕たちは夜のガンジスへと漕ぎ出した。
「案内はすべてタダ」というヒロシの言葉通り、代金は一ルピーも要求されない。ただ、汗だくで櫓を漕ぐ少年のあまりの重労働に、僕たちは耐えかねて二百ルピーのチップを握らせた。
漆黒の川面を進むと、突如として眩い光と打楽器の轟音が響き渡る。ヒンドゥー教の祭礼プジャである。
何十隻ものボートが重なり合い、観客たちはその熱狂に身を投じる。確かに迫力は凄まじい。しかし、開始十分もすれば、その単調なリズムに意識が遠のき始める。
「これ、ボートに乗る意味、なくないか」
サラガミの指摘は的を射ていた。
プジャの会場は陸地であり、宿からも徒歩圏内だったのだ。わざわざボートで数分漕ぎ出し、また陸に上がって一時間も立ち尽くす。この行程のどこに合理性が存在するのか。
「歩いて帰るから、帰りのボートはいいですよ」
僕がそう告げると、ヒロシは「えっ、プジャ、だよ。プジャなのに」と、この世の終わりを見たような悲痛な面持ちになった。
これはいけない。おとなしいヒロシは、ただのヒロシ。僕は、消え入りそうな彼の自尊心に火を灯すべく、あの一撃を放った。
「バラナシィィィィ」
「ヒーロシー」
サラガミも呼応する。
「ヒーロシー」
無事、魂の再起動を果たしたヒロシは、再び調子を取り戻し、結局僕たちは一時間のお祭りに最後まで付き合わされ、再びゆっくりとボートで帰路に就く羽目になった。
翌朝五時三十分。
前夜の深酒で意識が混濁する我々の部屋に、突如として「バラナシー」という絶叫が響き渡った。ヒロシである。
目覚まし時計を全否定するようなその暴力的な起床ラッパに、隣室の宿泊客が舌打ちをする音を、僕は確かに聞いた。
「朝からヒロシは、なかなかに堪える」
ガンジスに昇る朝日を見にいく約束をしていた。
三度目の聖なる川。ボート漕ぎの青年は、前夜の疲労が抜けていないのか、「ヒィヒィ」と喉を鳴らしながら必死に水を掻いている。
だが、努力の方向性は無情にも裏切られた。空は厚い雲に覆われ、期待していた朝日は欠片も見えない。太陽の存在に気づかぬまま、世界はじんわりと、そして薄汚れた灰色に明るくなっていった。
朝日運も夕日運も見放された僕たちは、火葬場から立ち昇る煙を鼻で感じながら、重い足取りで陸へと上がった。
「無料でガイドするかわりに、僕の店を見に来てほしい」
これが、ヒロシとの契約の全容であった。僕は彼のキャラクターを愛していたし、キーホルダーの一つや二つ、あるいは謎の置き物程度なら、祝儀代わりに喜んで購入するつもりでいた。
だが、彼が意気揚々と我々を導いた先は、あろうことか天然カシミアの高級布屋であった。
「これ、いくら」
「二万ルピー(三万二千円)」
「ヒロシ、あんたやりすぎだ」
バックパッカーの財布の薄さを熟知しているはずの彼が、なぜこの価格帯の勝負に出たのか。
僕たちは何度も感謝を伝え、代わりに「日本の仲間に君の良い噂を広めるから」と精一杯の誠意を見せたが、ヒロシの心は既に閉ざされていた。
店を出る頃には、彼は完全に拗ねてしまい、もはや僕たちの目を見ようともしない。あんなに熱烈に「ヒーロシー」と叫び合った仲だというのに、別れの間際、彼は一言も発さず、虚空を見つめたまま彫像のように固まっていた。
「拗ねてるな、買わないから」
「あんなに仲良くなったのに、最後がこれか」
後味の悪さを噛み締めながら、僕たちはバラナシを後にした。
聖なる川の恩寵よりも、一人のガイドの落胆の方が、僕たちの心に深く刻まれてしまった。聖なる川でも、人の面倒までは洗い流せない。
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順調な旅の正体

コルカタからバラナシ、そしてアーグラー。
インドという魔境への警戒心でガチガチに固まっていた僕たちの心は、思いのほか拍子抜けするほどスムーズな移動の連続によって、少しずつ、しかし致命的に弛緩し始めていた。
聞いていた話とは打って変わって、定刻通りに走る列車に、いつの間にかこの国を「攻略」しつつあるという傲慢な余裕が混じり始めていた。それは、ライオンを檻の外から眺めて「可愛いじゃないか」と嘯くような、無知ゆえの全能感だった。

アーグラーで僕たちが雇ったガイドのアーネルもまた、その「余裕」を助長させる存在だった。
他の客引きが叫び散らすなか、彼は最も安く、最も静かな態度で僕たちの前に立った。アーネルを選んだ僕たちは、まるで自分たちが賢明な消費者であるかのように錯覚し、彼の引くトゥクトゥクに揺られた。
いくつかの有名らしい建物を見た後、タージ・マハルに到着した。眩暈を覚えるほどの白光を放つその建築は、実物の威圧感をもって僕たちの網膜を焼いた。
土足厳禁。そう命じられ、僕たちは足に青いビニール袋を装着させられた。カサカサと音を立て、聖なる床を汚さぬよう「マナー」を守って歩く。
だが、一歩聖域の外へ出れば、脱ぎ捨てられた青いビニールが小山を築き、阿呆のような顔をして熱風に舞っている。
聖なる白を保つために、醜悪なゴミの青を積み上げる。その矛盾に満ちた「完璧な台無し感」を、僕たちは「いかにもインドらしい」と笑った。

だが、その浮ついた足取りは、一杯のアイスコーヒーによって、唐突に現実へと引き戻されることになる。
夜の列車まで、まだ時間があった。
「アーネル、奢るから一緒にお茶しよう」
僕は、この街では異質なほど冷房が効いた、すなわち「インドという現実」から切り離された無菌室のようなカフェに、半ば強引に彼を連れ込んだ。
一杯百ルピー。それは、アーネルが僕たちに提示した、この四、五時間分のチャーター代と同じ額だった。
ソワソワ。キョロキョロ。
豪華な調度品に囲まれた店内で、アーネルは身を縮めていた。運ばれてきたコーヒーを、味覚を遮断するように一気に喉へ流し込むと、「俺は外で待ってる」とだけ言い残し、彼は逃げるように去っていった。
熱気と、煤煙と、騒音。彼にとってはそれこそが、唯一呼吸を許された「正解」の場所だったのだ。
冷房が効いていること。金で清潔を買えること。その特権を、僕たちは善意という包装紙で押し付けた。それはアーネルにとって、自分の惨めさを顕微鏡で覗かされるような、残酷な拷問でしかなかったのではないか。
「お前の価値は、この一杯の黒い液体に等しいんだぞ」
無意識のうちにそう突きつけていた自分が、たまらなく薄汚いものに思えた。
その瞬間、バラナシで別れたあの男、ヒロシの顔が脳裏に蘇り、僕の胃の奥を激しく掻き回した。
「ガイドは無料、そのかわり店を見に来るだけでいい」
あの時、僕たちはその言葉に甘え、彼を実質タダで使い倒した。法外な値段をふっかける彼をコメディとして笑い飛ばし、一円も落とさずに店を出た自分たちを賢い旅人だと自惚れていた。
では、ヒロシが僕たちに捧げたあの二日間という時間は、一体何だったのか。
それは彼の人生の、切り売りされた断片だったはずだ。僕たちはそれを無料で受け取っていたのだ。アーネルも、ヒロシも。
僕は彼らの「安さ」を買ったのではない。彼らの生活を、安価なエンターテインメントとして消費していただけだった。
順調な旅の正体は、他者を犠牲にした自己満足にすぎない。
喉の奥から、胃液がせり上がってくるのを感じた。
冷房の効いたカフェ。高価なコーヒー。
それらすべてが、今の僕には生理的な吐き気を催す劇薬でしかなかった。
夕刻、チップという名の贖罪をアーネルの手に握らせ、僕たちはデリー行きの列車に乗り込んだ。
もはや、快活な会話など一言も交わせなかった。少なくとも、僕の側からは。
ふと横を見ると、サラガミはいつもと変わらぬ、静謐な横顔で車窓を眺めている。彼は、僕が今しがた飲み込んだ泥のような嫌悪感とは、全く無縁の場所に立っているようだった。
思い返せば、彼はそういう男だった。
バラナシでガイドもどきが追い払われた時、彼はわざわざ追いかけてまでチップを渡しに行ったことがあった。「あいつはただ自分の仕事をしようとしただけだよ」と、事も無げに言い放った。
僕が胃を焼いている横で、彼はいつだって、その残酷なまでの正しさを完遂してみせる。彼にとっては、アーネルにコーヒーを奢ることも、また一つの正解でしかなかったのだろう。
サラガミのその濁りのない横顔が、今の僕には、冷房の冷気よりも鋭く肌を刺した。同じ景色を見ているはずなのに、僕たちは決定的に違う生き物として、この夜の闇を突き進んでいる。
車窓を流れる闇が、僕の偽善と、サラガミの当たり前を等しく嘲笑うように、深く、重く垂れ込めてくる。
順調な旅という複利が、僕たちの感覚を致命的なまでに麻痺させていた。
その夜、インドという巨大な魔物は、自意識の防波堤が決壊した僕たちの背中に、既に歯を立てていた。