旅人失格 第十三章 「生活する場所が違うだけ」 バンコク
アユタヤの熱気に脳髄を蹂躙された僕たち三人は、駅に降り立つや否や、それぞれの業に従って散った。サラガミカップルはエアコン完備の、鼻持ちならぬ清潔宿へ。懐の寂しさが芸術の域に達している僕のような敗残兵に、同行の余地などあるはずもなかった。
「百バーツで泊まれる、正気とは思えない宿があるらしいよ」
パツコが投げ与えた施しの如き情報を頼りに、ランブトリー通りの澱みへと足を向ける。そこには、貧困の引力に吸い寄せられた三軒の宿が、巨大な口を開けていた。
一軒目の頼りない佇まいを凝視していた、その時である。
「お兄さん、やめときなよ」
背後から、泥水で煮しめたような衣を纏った、不潔の権化に声をかけられた。

男は毛深い。毛が人格の八割を占めている。ケゴイ。余りに余った性欲をアジア大陸に散布したいが金がない、と彼は堂々と言う。思考回路は楽観という名の安酒に漬け込まれ、芯まで味が染みている。彼の性欲はもはや欲求ではなく、執拗な日課である。
一泊二百六十円。この圧倒的な低廉さを前に、衛生などという高尚な贅沢は一瞬で雲散霧消した。
ドミトリーには先客が一人。Tシャツはあちこちが無惨に破れ、布としての機能を半ば放棄している。ヤブレである。チベットやスタン系を回る、マニアックな旅行者。無口で控えめな振る舞いを見せているが、その眼光の奥には、ケゴイと同等、あるいはそれ以上の、重度のムッツリスケベという名の業が滲み出ている。

カオサンの夜。残されたのはケゴイ、ヤブレ、そして彼らに負けず劣らずの汚濁をきっちり着込んだ僕。見事に役割の異なる三種類の駄目さが揃った。
「女の子が必要だな」
ケゴイが、自らの異常な性欲を剥き出しにして宣う。
「いや、僕は別にいいよ」
ヤブレが、いかにも慎ましやかな面持ちで嘘をつく。
結局、僕らはパッタイを啜り、場末のバーへと身体をねじ込んだ。金のない僕らに残された娯楽は、本来そこに属さぬ場所に図々しく寄生することだけである。
店内の澱みの中に、ビリヤード台だけが傲然と鎮座している。
キューを握るが、なぜ人は棒で球を突かねばならぬのか、その思想の根本が腑に落ちない。僕たちのプレイは、枝を拾った猿が気まぐれに木の実を転がすのと大差なく、退屈が場を覆い始めた。
「ヘイ、ガイズ」
声というより、侵入だった。
赤髪のノラと金髪のリーザ。負けた方がビールを奢る。一杯百二十バーツ。宿代を上回る数字の暴力だが、僕らはすでに金銭感覚という臓器をどこかに置き忘れてきた。貧乏とは判断能力の緩慢な死だ。
ゲームが始まる。しかし、始まった瞬間にそれは終わっていた。
ノラの番が来ると、ケゴイは磁石に吸い寄せられる鉄屑のように背後の椅子へ滑り込んだ。彼女のショートパンツから溢れ出した肉の膨らみは、物理法則を無視して膨張を続ける二つの小惑星のようであった。ケゴイは口を半開きにし、もはや球など見ていない。
リーザの構えはさらに惨烈を極めた。台スレスレまで身を沈めるその所作は、自らの重みを地球に預けすぎた者の末路に近い。タンクトップの隙間からは、監獄を脱走せんとする肉体の一部が、不穏なまでの主張を繰り返している。
ふと見れば、ヤブレの視線が、その肉の決壊現場にダイレクトに接続されていた。さらにその背後では、ケゴイまでもがベストアングルを求めて地すべりのように移動している。
僕は観察者として彼らを冷笑していた。
くだらない、と思って一度だけ目を逸らす。
だが、すぐに戻す。もう同じだった。
理性の防波堤は音を立てて崩れ、僕の網膜もまた、桃色の質量に蹂躙される。そこにあるのは、人類の進化がここで一旦停止し、退化へと舵を切った瞬間のような、虚無的な面構えである。

当然負ける。酒を献上した。
家畜という言葉が頭をよぎるが、家畜のほうがまだ役に立っている。
僕らはただ、ぼんやりと金を失っていた。
何かを得ているつもりで、何も残っていない。ただ、搾取されるための構造だけを自ら整えている。
三戦目、ヤブレが突然、別の生き物になった。球が吸い込まれる。
一つ。また一つ。
誰も何も言わなくなる。
おかしい。
これは、さっきまでのヤブレではない。
遅れて、歓声が上がる。人は急に持ち上げられると、自分の重さを忘れる。
残りは一球。黒。
彼は構える。フォームがどんどん奇妙な方向へ変形していく。もはや球ではない。観客の方を向いている。
そして、打った。
カツン。
乾いた音が響く。白球は黒球をかすめることすらなく、テーブルの外へ飛び出した。余計な装飾を一切排した、無駄のない、実に清潔な失敗である。
一拍遅れて、笑いが爆発する。
「ビールありがとう」
ノラとリーザは軽やかに言い、飲み干す。その爽やかさが、かえって残酷だった。
背の高いヨーロッパ人が二人、入ってきた。
それだけで、全部終わった。二つの自然現象が場に入り込み、簡潔な言葉で彼女たちを回収する。
「ボーイズ、グッドナイト」
リーザのその一言で、すべてが整理された。
ボーイズ。
僕らは男ではなく、もう少し用途の限られた何か。到達していないのではない。その線上にすらいなかった。野獣ですらない。餌を運び、金を差し出し、勝手に傷つく、やや複雑な装置。
店を出ると、夜のバンコクは相変わらず騒がしかったが、僕らの周囲だけが妙に静かであった。誰も何も言わない。歩く。トイレの匂いのする方向へ。あの百バーツの宿へ。
帰るしかない。他に何かあるか。いや、ない。
僕たちはこの街に、きちんと負けていた。筋の通った、文句のつけようのない負け方で。
翌朝、八時。
同じ部屋にいたはずのケゴイとヤブレの姿はない。あんな無様な負けを喫したというのに、彼らの、いや、僕らの生命力はゴキブリのそれに匹敵する、と感心しながら、僕は百バーツの宿を一泊延長した。
百円のカオマンガイを胃に放り込み、三十円の、泥水に砂糖をぶちまけたようなコーヒーを啜りながら、僕は明日の移動について考えていた。明日、サラガミカップルと合流し、カンボジアへと向かう。
「アジア一のぼったくり大国」
アンコールワットという巨大な利権にあぐらをかいた現地人が、手ぐすね引いて「カモ」を待っているという。
旅慣れたヤブレに、安く済ませる術を乞うしかない。そう結論づけて宿へ戻ると、そこにはヤブレではなく、見る影もなく変形したケゴイが転がっていた。
ベッドに横たわるケゴイは、熱帯雨林のような髭を汗で濡らし、荒い呼吸を繰り返していた。その顔面には、誰がどう見ても、暴力によって刻まれた不名誉な痕跡がある。
「ふ、袋くれ」
蚊の鳴くような声だった。僕は化石のように床へ張り付いていたビニール袋を差し出した。彼はそこに、昨夜の残滓と、人間の尊厳のようなものをまとめて吐き出した。酒の吐き方ではなかった。
「シン、まずいことになった」
ケゴイは、震える声で語り始めた。
昨夜、ビリヤードで完敗したあと、火のついた性欲を持て余した二人は、トゥクトゥクで夜の街へと繰り出したのだという。
タイ人女性二人と意気投合し、洒落たバーで酒を奢る。アジアを、あるいは人間というものを舐めきっていた彼らは、そこで日本人という、期限切れのブランドにあぐらをかいていた。
会計は四千バーツ。宿に四十泊できるほどの暴利を請求され、彼らは色めき立った。だが、気づけば女たちは消え、ドアからはタトゥー塗れのスキンヘッドと、肉の塊のような力士然とした男たちが現れた。
金のないヤブレに代わり、ケゴイが四千バーツを支払う。それで済めば、ただの高い勉強代で終わったはずである。
だが、肉の塊はヤブレを捕らえ、張り倒し、サッカーボールのように蹴り上げた。
「俺の女に手を出して、タダで済むと思うな。あと一万バーツ払え」
見え透いた美人局。だが、その場を支配しているのは正論ではなく、圧倒的な筋肉の質量だった。
「わかった、払うからアイツを離してくれ」
ケゴイはそう叫んだが、すでに財布は空。
それがわかると、今度はケゴイが殴られた。
パニックに陥った彼は、ヤブレを置き去りにして、無我夢中でその場を逃走した。それ以来、ヤブレの行方は知れない。
「それで、今戻ったのか」
ケゴイは黙った。僕は黙って返事を待った。
「アイツ、旅しすぎて頭がイカれてるんだよ。貧乏なんじゃなくて、本当に、マジで一銭もないんだ」
ケゴイが、腫れ上がった目を擦りながら言った。
「なんでヤブレは日本に帰らないんだ」
「アイツは、パスポートも売っぱらって、それで今の生活を繋いでるんだよ」
言葉が出ない。
バックパッカーという名の穴。その底の底を、僕は見てしまった。
堕落、執念、根拠のない楽観。あらゆる負の要素が煮詰まり、ヤブレをその境地へと押し流した。それは自由ではない。ただの破綻だ。
ケゴイが重みのあるビニール袋を持ってトイレへ立った。
吐き気が込み上げた。今度は僕の番だった。
旅の中毒性、帰国を拒む頑なな感覚。それが今の僕には、恐ろしいほどに理解できてしまう。七十万円で始めたこの旅も、すでに半分を消費している。にもかかわらず、僕には危機感という概念が欠落していた。
出国前、大葉さんが浮かべていた、いかにも詩人ぶった、鼻持ちならない、いい顔を思い出す。
「旅ってのはさ、生活する場所が違うだけなんだよ。そのうちわかる」
あの時は、耳に優しい格言の類だと思って鼻で笑った。だが、ようやくわかった。
あれは詩ではなく、血の通った注意喚起だったのだ。
どんなに生活費が安くとも、どんなに開放的な空気が流れていようとも、最後の一線、生活としての規律だけは死守しろ。それを切り離した瞬間、命は単なる消費財に成り下がる。ヤブレのように。
トイレから戻ったケゴイが、僕を見た。
「シン、頼む。一緒に来てくれ。アイツを助けたい」
僕はこういう時、関係ない顔をする。昔から、そればっかりだ。だが、長くは持たない。
面倒なことには関わらない、というのが一応の常識だ。ただ、こういう時に限って、それを思い出せない。
「行くか」
僕は短く答え、彼と共にトゥクトゥクに乗り込んだ。
ケゴイを隣に乗せ、排気ガスの煙を切り裂きながら、僕らを乗せた車輪は、アソークへと向かった。

カオサンからアソークまでは、距離にして十キロメートル以上。僕たちを乗せたトゥクトゥクは、バンコクの熱気と渋滞の間を、強引に進んでいく。風圧でケゴイの髭が卑猥に波打ち、僕の鼓膜は排気音に削られ続けていた。
騒音の中で、僕らはしばらく何も話さなかった。
「あいつさ」沈黙を破ったのはケゴイだった。
「あいつは、実は隠れた武道の達人、それか、修行僧の成れの果てなんじゃないか」
だらだらと汗をかきながら、ぼそぼそと喋っている。
「あのTシャツの破れ目は、敵の攻撃をあえて誘い込み、合気で投げ飛ばすための、精密に計算された隙間に違いない」
どうやらケゴイは壊れたようだ。
だが、ここで現実に戻すのは、どうにも野暮だ。
僕もまた、その妄想の片棒を担ぐ。
「そうだ。ヤブレは今頃、あの力士どもを正座させ、チベットの経典を読み聞かせているはずだ。一万バーツなど、彼の放つ『節約の闘気』の前では、単なる不潔な紙屑に過ぎない。むしろ、彼の拳が空を切るたびに、バンコクのインフレ率が数パーセント下落するほどの、経済的な衝撃波が生まれているはずだ」
人は、どうにもならない現実を前にすると、それを神話にでもしないとやっていられないのかもしれない。
僕たちはトゥクトゥクの振動に身を任せ、英雄ヤブレの武勇伝を、レンガを積むように執拗に構築した。
ケゴイは覇気を取り戻し、僕は僕で、無関係の自分の財布から一万バーツが消えるという可能性から、必死に目を背けていた。
だが、目的地のアソークに降り立った瞬間、その虚妄の城は、音もなく崩壊した。
「シン、見つからない」
ケゴイが、物をなくした子供のような、あるいは空気が抜けていくボールのような情けない声で呟く。
ネオンが消え、暴力的な太陽光に晒されたアソークは、昨夜の淫らな面影を欠片も残していない。看板を失った店は、ただの汚れた壁へと退行し、彼の曖昧な記憶を、あざ笑うように立っている。
「クソ。あのバー、どこだったかな。全然、わかんねえよ」
ケゴイはその場に崩れ落ち、鼻水を垂らして泣いた。
「マジで、わかんねえ」
昨夜の場所がアソークであったのかすら、もはや定かではないようだ。
僕たちは、陽が天中を過ぎるまで、排気ガスに塗れて歩き回った。だが、ヤブレの影も、力士の残滓も、ついに見つかることはなかった。
救出劇のつもりで始まったそれは、喧騒に吸い込まれ、ただの無駄な散歩へと、滑らかに、しかし確実に変質した。
結局、近くの露店で、味のしない、ただ熱いだけの食事を胃に流し込み、電車とバスを乗り継いでカオサンへと引き返した。
午後三時。
室内は、重苦しい沈黙に支配されていた。
ヤブレはどうなったのか、誰も知らない。連絡もつかない。
ケゴイはアソークを出てから、一言も発さなくなった。僕もまた、かけるべき言葉の在庫を使い果たしていた。
ふと見れば、ヤブレのベッドの上に、彼の衣類が積まれている。
あちこちが無惨に破れているというのに、それは驚くほど几帳面に、角を揃えて畳まれていた。シワひとつないその布の塊は、ヤブレという男の異常なまでの潔癖とその執着を、静かに主張している。
その几帳面さをもって、彼はパスポートを売り払い、当面の生活費へと変換したのだ。それが大した金にならないことなど、彼自身が一番よく分かっていたはずである。
追い詰められていたわけではない。悲劇の主人公を気取っていたわけでもない。ただ、旅というものが、ある一点を超えた瞬間に生活という泥沼へと変質する、ただ、それだけだ。
「俺、帰る」
ケゴイが、唐突に呟いた。
彼は、死んだ魚のような眼をして、髭を揺らしながら、荷物をまとめ始めた。
僕は、もう何も言わなかった。
窓の外では、カオサンの喧騒が、昨日と何ら変わらぬ音量で鳴り続けていた。それは僕たちの負けや、誰かの消失など、最初から無かったことにしてしまう、巨大な洗濯機のような音だった。