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とある現象

ついにユーラシア大陸の端くれが姿を現そうとしている。
「シンガポールは厳密には島だから、まだ大陸とは呼べないのではないか」
脳内の冷徹な僕が毒づくが、そんな些末な地理的定義はどうでもいい。
チャンギ空港に降り立った瞬間、網膜が捉える情報に眩暈を覚えた。つい数時間前まで、僕は混沌を煮詰めたようなマニラにいたのだ。そこからこの、過剰なまでに清潔で、神殿のように広大な空港への転移。自動券売機や無人で走るモノレールの滑らかな動き。新しい文明の火を初めて目にした原始人のような心持ちで、僕はただ圧倒される。
そして、人種の縮図を見ているようだ。フィリピン人と韓国人と台湾人という限られたサンプルしか知らなかった僕の前に、全人類の色彩が一度にぶち撒けられたような光景が広がる。
なるほど、本当に異国にやってきた。という実感が、ようやく遅れてやってきた。

これで三カ国目である。入国審査は四度目となり、僕の英会話も「イェェ」「サンクス」などと、省エネ仕様に進化してきた。進化というか退化だ。いや、ただの気取りである。
その気取った足取りで、予約していた最安のホステルを目指す。目指すのはいいが、現実の僕は原始人だ。モノレールの券売機の前で立ち尽くし、文明に対して無言の抗議をしていた。
背後にいた二人に助けを求めると、彼らはあっさり文明側に引き入れてくれた。
「その宿なら知っている、俺たちも帰る方向だ、一緒に行こう」
彼らの言葉を、疑うことなく信じ込んだ。
予約サイトの案内に従い、最寄り駅までの切符を買おうと画面に手を伸ばした、そのとき背後から声が飛んできた。
「そこじゃない、その一つ手前で降りたほうが近い」
もう一人が確かにそう言った。断言したと言っていい。だが、いくら原始人の僕でも、地図を見ればそれが間違いだとわかった。しかし、ここで彼らの強引な善意を拒絶し、孤独に券売機と格闘するという精神的コストを支払うのが、僕にはひどく億劫だった。

駅を降りると、そこには「ゴミ一つないシンガポール」という幻想を打ち砕く光景があった。歩道には生活の滓が散らばり、そこかしこにアジアらしさが澱のように溜まっている。清潔という概念にも地域差があるらしい。
歩くこと二十分。
「着いたぞ」
彼らが指差した先は、予約したホステルではなく、静まり返ったムスリム墓地だった。人生の終着点のほうである。
「墓を予約した覚えはない。まだ若い。僕は宿に行きたいのだ。」
「ここには歴史がある。ペラペラ」
彼らは歴史の講義を始めた。目的地に着いていないのに、なぜか達成感を含んだ爽やかな笑顔を見せている。悪意がないからこそ修正が効かない。僕はマップを示し、現在地と目的地という、人類が長い年月をかけて獲得した概念を提示した。
「なんだ、そうだったのか。宿なら俺たちに任せろ、すべてを」
今初めて知ったような顔で、彼らは再び歩き出した。さっきまでの二十分はなかったことになっている。歴史は語るが直前は忘れるらしい。

ゴミが散らばり、鼻を突く匂いが層をなして漂う、より「それらしい」一角へと踏み込む。僕はこれまでもこれからも、そしてどの街でもこういう最底辺のエリアに脚を運ぶことになるのだろう。電車を降りてから、すでに一時間が経過している。本来なら駅から五分で着く距離である。
やっとの思いで辿り着いたのは、服屋だった。
「おい、これがお前に似合うぞ、買えよ」
買わない。なぜここで購買意欲を発揮せねばならぬのだ。彼らは商店街の主婦のように、無邪気に服を選び始めた。
赤道直下の午後二時。僕は全身から汗を流しながら、自分が何のためにここにいるのかを一瞬見失う。目的というものは、気温が高いと蒸発する。

彼らは長時間衣類を物色した末、何も買わずに店を出た。店先で知り合いらしき者と鉢合わせ、そのまましばらく話し込む。
それならばと僕が歩き出すと、一人が手を差し出して「まあ、待て」と制する。
彼らの行動に一貫性を求めるほうが、どうやら間違っているらしい。
「ホステルはどこだ。僕たちはどこへ向かっているのだ」
「なんだって。ホステルに行きたいのか。あそこに交番があるから尋ねてみるといい」
ここへ来て外部委託。なにそれ、聞いてない。裏切りかと思ったが、いや違う、そもそも最初から誰も僕の人生に責任など持っていない。マップさえ見れば一人で辿り着けたはずなのに、初めての国というだけで、人と並んで歩き、しかもちゃんと目的地に着くという、いかにも観光客的な浅瀬の幸福に足を浸したくなったのだ。情けない話である。
それで面白半分についていった。ところがその面白がどこにもない。意味不明の寄り道ばかりで、時間は溶ける。時間というのは金より軽いくせに、一度なくなるとやけに重くのしかかる性質がある。
その挙げ句、我が軟弱な端末のバッテリーが静かに絶命。文明の紐がぷつりと切れた。さっきまで「一人でも行けた」と思っていた人間が、いざ一人になると一歩も進めない。この落差、もはや芸である。

あの二人、どうにも気持ちが悪い。
「意味がわからない」と人は気軽に言うが、あれは大抵わかっている。わかったうえで気に入らないから、わからないふりをしているだけだ。便利な言葉である。
だが今回は本当にわからなかった。彼らの目的と善意の行方がわからないのだ。
僕は混乱した。「世界は広い」らしいが、それは「たまにこういう場所がある」ということなのかもしれない。
彼らは一貫して自信に満ちていた。だが、その自信は結果と連動していない。
僕はこのとき、まだそれを偶然だと思っていた。

交番に辿り着いた僕は、さらなる不条理に直面した。入口で四人の警官に囲まれ、荷物を没収された。嫌な予感がする。さっきと同じ構造のものが増殖している気がして、さらに汗が噴き出た。
灼熱の屋外で待たされる。僕のバックパックの中身は、生乾きのTシャツから食べかけのオレオに至るまで、弁明の余地なく並べられた。
やがて涼しい部屋に通され、真面目な顔の取り調べが始まった。少し怒っているようだが、なぜこんなことが成立するのだ。僕は「ハロー」と言っただけだ。
「宿の場所か、知らんな。だが、道行く人に聞けばわかるだろう」
警官は誇るように言った。論理が一周して戻ってきた。親切と正確さは、どうも別物なようだ。
僕は荒らされた荷物を詰め直しながら、ひとつの理解に到達しかけていた。彼らは嘘をついているのではない。むしろその逆で、善意をそのまま運用しているだけなのだ。だが善意は、方向を持たないとこうなる。
つまり、どこへでも行ける。
そして、どこにも着かない。
親切で、熱心で、疑いがない。
そして、どこか決定的に噛み合わない。

その後、スティーブという、裸足で歩いていたオーストラリア人に出会い、そこから二分で宿に着いた。説明は簡潔で、道は直線だった。僕が好きな世界はこういう進み方だ。
さっきまでの数時間は何だったのか。そう思ったところで、ようやくひとつの言葉が頭に浮かんだ。
あれは個人の問題ではなかった。もっと大きな、ひとつの傾向と性質。僕はこの時それを理解しかけていた。「インド人という現象」が起きたのだ。

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通じるもの、通じないもの

宿の一階は賑やかなバーになっていた。僕が寝るのは、二階の二十四人部屋のドミトリー。物価の高いこの国で生存するための、最低限の砦である。
バーのカウンターでチェックインを済ませ、水を飲んでいると、背後から片言の日本語が飛んできた。
「日本人れすか、わたちあ、香港人てす」
振り返ると、赤子のように顔を赤らめた三十代くらいの男が酒を飲んでいた。

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くねくねと体を揺らしながら歩くホンコンのその姿は妖怪という言葉がぴったりだった。
近づいてくるなと祈ったが、それも虚しく、通路を塞ぐようにして僕の隣の椅子に腰掛けた。「むふぃ、まちゃまちゃ、れっぺろぷりん」と彼は言った。
「そうですね、マーライオンとか見てみたいのですが」と答えると「もんみ、ちぇねぱん、むみむみてれっぽ」と唱えた。どうも珍しい酔い方をする男だ。

荷物をベッドに置き、シャワーを浴びてドアを開けると、ホンコンが酒瓶を片手に立っていた。伏せが成功したような笑みである。
「せけせけ、うぃぴぴらら」
と彼は言う。確かにそうだ。マーライオン公園は夜の方が美しいに決まっている。
しかし彼と二人でそのような風情の地へ行くなど言語道断だ。一人で迷子になって、何も見れずに帰る方がまだいい。
だが、道中のインド的親切に心臓を磨り潰された僕には、もはや彼を拒絶する気力が残っていなかった。一人で夜景を見るという贅沢すら、今は重い。
僕は諦めたような気分で、十九時にバーで待ち合わせる約束を交わした。

ホンコンの様子を見に一階へ降りると、そこは熱気とアルコールの臭いで満ちていた。チェックイン時とは比べ物にならない人の波で、彼を見つけるのはほぼ不可能に思える。
それならそれでいい。このまま自然に引き離されれば、言い訳も立つ。僕は部屋に戻り、彼と会わずに済む筋道を考えた。
マーライオンを二人で見に行く。どう考えても正気ではない。
あの場所は、光を浴びた高層ビルと幸福な恋人たちのための聖域だ。そこに、ベロベロの中年と小汚いバックパッカー。
地獄である。景観破壊の罪で拘束されても文句は言えない。
僕はこの「地獄のデート」をいかに穏便に破談させるか、そればかり考えていた。

その時だった。バーにいたはずのホンコンが、千鳥足で部屋に乱入してきたのだ。
「あむあむ、もひっもひっ、っぱぁ、ちゃんむ」
独り言を垂れ流しながら進み、そのままベッドに倒れ込む。三秒後には、野生の獣が警告するような凄まじいいびきが始まった。
「んんんごぉぉぉ、しゅぅぅぅ、ふがっぷすぅ、ほぎぃっ」
「ライオンはここにいたか」
これは天の慈悲である。
僕はその隙に彼から逃げた。夜逃げの勢いでホステルを飛び出す。髪も乾かぬまま、マップだけを頼りに、僕は一人でマーライオン公園へ向かった。

周囲を見渡せば、華僑の活気とインド系の喧騒、そして白人観光客の優雅さが交差していた。街を歩く人々は皆、清潔で、洗練されている。
対して僕はどうか。
顎のあたりまで伸びた、もはや洗髪という概念から逸脱した髪。手入れではなく放置の末に成立した泥棒ヒゲ。極めつけに、バギオのナイトマーケットで掴んだSサイズのTシャツは、乳首の所在を世界に向けて主張している。
下は、糞便でも撒かれたかのようなペンキ染みの短パン。目はいつもの如く死んでいる。
ここに僕が現れたら、僕は迷わず逃げる。

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しかし仕方がない。バックパッカーなのだから。僕は冷房の効いたショッピングモールを、さも正当な市民であるかのような顔で突き進んだ。

歩くこと一時間。
ついにマーライオン公園へ辿り着く。眼前には、あのマリーナベイサンズ。
「でかいぞ、これ」
語彙は貧弱なまま、僕は例の「世界三大ガッカリ」と対面した。
「さあ、存分にガッカリさせてくれ」
見上げたその獅子は、予想に反して、親の仇でも討つかのような勢いで水を吐き続けていた。
「出ている。思ったより、ずっと出ている」
それはまるで、体内に溜まった精神の膿を、一点の容赦もなく外界へ放流しているかのようだ。あれだけ潔くすべてを曝け出せれば、さぞスッキリするだろう。
僕はその圧倒的な放流を前に、ただ静かに感心していた。

その時、背後から聞き覚えのある母国語が聞こえた。
振り返ると、二十代半ばとおぼしき日本人女性の三人組が、マーライオンを背に写真を撮り合っている。
「三人で来ているのなら、誰かに頼めばいいのに」そう思った瞬間だった。
「誰かに頼んで、三人で撮れたらいいのにな」
一人が周囲を見回しながら、まったく同じことを言った。
恐ろしいことだ。僕は人の思考を先取りしたのだ。
その瞬間、脳内で自意識が暴走を始める。
「あそこの路上生活系の兄さん、日本人っぽいし。写真お願いしようか。ついでに連絡先とか。きゃあ」

距離が近すぎる。これはもう、実質的に僕への依頼ではないか。

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僕は空気を読む職人を気取り、満面の笑みで歩み寄った。
「あの、撮りましょうか」
「あ、大丈夫ですぅ」
拒絶だった。
日本語で話しかけ、日本語で断られる。
それも、羽虫を払うような、あるいは不審者に対する反射に近い拒絶。
その瞬間、僕の中で哲学が発火した。
「ほら見ろ。これこそが日本という国が世界に誇る、清潔と礼節を装った冷酷な排除の論理ではないか。
彼女たちは、僕という個体を見てはいない。ただ『汚いTシャツから乳首を透けさせた浮浪者もどき』という視覚的ノイズを、秩序ある景観から瞬時に削除したに過ぎないのだ。
外面の美しさを至上命題とする母国において、僕のような身なりの者は、もはや人間としての尊厳すら剥奪された、ただの歩く産廃だ。親切心だと。笑わせるな。それは同等以上の清潔感を持つ者同士でしか流通しない、限定的な地域通貨に過ぎないのだ」

僕は肩を落とし、少し泣いて、その場を離れようとした。
すると、三人の中の一人が、僕を追って駆け寄ってきた。
「すみません、写真、撮ってもらえませんか」
眩いばかりの笑みだった。
さっきの哲学は、その一言で消えた。
「はい。喜んで」
彼女から手渡されたスマホは、画面がバキバキに割れ、表面には指紋と脂汗がべっとりと付着していた。笑顔の裏側にある、隠しきれない生活の残骸。
僕のTシャツに浮き出た乳首の所在と、そのスマホの汚れは、この夜景の中で共鳴しているように見えた。
僕は全身全霊で、その汚れごとシャッターを切った。
意味のわからない言葉は通じていた。わかる言葉は、通じていなかった。
理解とは、案外いい加減なものらしい。

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成立してしまう世界

精神的自傷をこれ以上続けるわけには行かないと、宿のあるリトルインディアへと這うようにして歩き戻った。そこはスパイスの粒子が網膜を刺すような、鮮烈な芳香を撒き散らすカレーの聖地である。
鼻腔を蹂躙するその芳香に抗えず、僕は「せっかくなら毒を食らわば皿まで」と、ここでインド料理への入門を決意した。

道連れを探しに部屋へ戻ると、そこには外出前と寸分違わぬ音量で「んんんごぉぉぉ」と野生の咆哮を上げるホンコンの姿があった。
「やはり、一人で行くのが宇宙の摂理か」
僕は再び独り、夜の街へ繰り出した。
「さて、どこで食べようか」と思案する暇さえ、この街の住人は与えてくれない。一秒後には見知らぬインド親父に腕を掴まれ、抗う術もなく店内に引きずり込まれていた。
人生初の、本場インド料理。異文化の圧力に気圧されそうになるが、マーライオン前で尊厳を粉砕され、一度死んで蘇った今の僕に死角はない。
供されたのは「ドーサ」という名の、理解を超えた物体だった。巨大なパリパリのライスペーパーが、カレー味のジャガイモを包み込み、皿という概念を無視して卓上にはみ出している。
本当は無難なチキンカレーなどが良かったのだが、インド親父の独断専行には抗えない。
三種の謎めいたソースにディップし、口に運ぶ。
「なんだこれは。不味くない。が、美味くもない」
絶妙に中途半端な感動を咀嚼し、完食した僕は「次は絶対にカレーにする」と、誰に宛てるでもない血の誓いを立てて店を後にした。

宿に戻ると、死んでいたはずのホンコンが奇跡の復活を遂げ、一階のバーで三人の女子に囲まれて酒を煽っていた。
「シンガポールでは、ああいう『汚い塊』のような男がモテるのか。どうなんだ」
僕は深い謎を抱えたまま、二十四人部屋の二段ベッドへと沈み込んだ。

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翌朝、午前八時。無遠慮な英語が僕の眠りを剥奪した。
「ヘイ、ウェイクアップ、メン」
薄目を開けると、そこには彫刻のような、しかしあまりに生命力が過剰なフランス人のマッチョが立っていた。
聞けば、己の肉体に日本語の刺青を刻みたいらしい。その参考にするため、「あそこに日本人が転がっている」という密告を受け、僕を叩き起こしたのだという。
正気か。フォント選びの参考で他人の眠りを妨げるな。
かつて、九州から上京して間もない頃、職場の休憩室で微睡んでいた僕を呼び戻したのは、同僚の女性スタッフによる「そろそろ起きなきゃだよ」という囁きだった。
標準語。その可憐で、どこか浮世離れした響き。どんな下衆であっても一瞬で恋慕の情を抱かざるを得ないその言霊に、僕は「まだ世界には、見落としていた人間生活の細部に眠る小さな喜びが残っていたのか」と、深い慈しみと共に覚醒したものだ。
だが、今回はどうだ。
「ヘイ、ウェイクアップ、メン」
何様のつもりだ。
朝っぱらから玉ねぎ工場の排気孔のような体臭を撒き散らす、この単細胞な筋肉の塊に、僕の神聖なレム睡眠を中断される筋合いなど微塵もない。あるのは向こうの都合だけだ。

だが、国籍だけで人の役に立てる機会など、そう多くはない。起き上がって話を聞いた。
「俺は両親を心からリスペクトしている。この文字で間違いはないか」
彼が提示したメモには、力強い筆致でこう記されていた。
『父上様、母上様』
「なんとも言えないですね」
字も、意味も、フォントも正しい。親を敬うその熱い魂も尊い。だが、それを体に刻むとなると、話は別だ。
「意味は合っている。だが、タトゥーにするなら、もう少しこう『父』と『母』だけでいいのではないか」
僕のつたない英語で懸命に説得を試みる。マッチョは「オーケイ、決めたぜ」と言い残し、嵐のように去っていった。
「本当に、分かっているのか」
一抹の不安を抱えつつ、僕は二泊分の料金を支払い終えたこの宿、ひいては物価の暴力が支配するこの国を去る決意を固めた。マーライオンを見たら十分ではないか、と思ったからだ。

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僕は使い切れずに余った五十シンガポールドルを使い果たすべく、宿の一階で酒を飲むことにした。ホンコンと、初日に僕を救ってくれたスティーブを誘った。なぜか彼は出会った時から外でも素足だ。オーストラリア人の靴を履かないという噂は本当だった。

午後五時、テラス席でビールを煽っていると、そこに一人の日本人が現れた。
不潔というか、もさいというか、もはや人相すら判別不可能なほど、前髪が垂れ下がり、顔を隠している。くたびれた黄緑色のTシャツを纏った男だ。ボソボソと喋るその姿は、お世辞にもイケているとは言い難い。

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「今夜はここでファンクバンドのライブがあるんだ」
黄緑さんはそう呟いた。
「へえ、いいですね」と僕が適当に相槌を打ったその時、事件は起きた。
「あぁーいたぁ」
「きゃあ黄緑さん」
突如として、黄色い声援が黄緑色の塊に降り注いだ。日本人女性から金髪の美女まで、多国籍な女子軍団が次々と彼に抱きつき、熱烈な歓迎を繰り広げるのだ。
「It’s amazing」
スティーブが絶句する。僕も、自分の視力が狂ったのかと疑った。目の前にいるのは、どう見てもボソボソ喋る、不潔なワカメである。
「一人呼んだらいっぱい来ちゃった。迷惑だよね」
モテてきた男特有の台詞を吐きながら、彼は軍団を連れて夜の街へ消えていった。

午後八時。
爆音のバンドサウンドと地鳴りのような歓声に体を揺らされた僕は、一階のバーへ駆け下りた。そこで僕が見たのは、ステージの上でヴィクター・ウッテン先生も逃げ出すような、超絶技巧のベースを弾き倒す男の姿だった。男は黄緑色のTシャツを着ていた。

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「あんたがやるんかい」
楽器を持った瞬間、彼の「もささ」は「色気」へと、死んだ目は「鋭い感性」へと、劇的な化学変化を遂げていた。普段のワカメのような髪は後ろで一つにまとめられ、顔面は、演奏というフィルターを通すと、驚くべきことにハンサムのカテゴリーに分類されていた。
「It’s amazing」
スティーブがまた壊れた機械のように呟く。女子たちの瞳は完全にハート型に固定され、黄緑さんは演奏が終わるや否や、再び軍団を従えて夜霧の向こうへと去っていった。

ライブの余韻が冷めやらぬバーに、再びホンコンが現れた。フランスマッチョも、どこかで彫ってきたばかりのタトゥーを誇らしげに見せびらかしながら合流した。
彼の両肩には、堂々とこう刻まれていた。

『父 母』

「It’s amazing」
「It’s amazing」
「It’s amazing」

僕たちは声を揃えた。僕の助言は、なんとか最悪の事態を回避させたようだった。言葉と理解と結果が、珍しく噛み合っていた。
深夜。ホンコン、スティーブ、そしてフランスマッチョと男臭い乾杯を交わす。
ステージで女子を侍らせていた、黄緑色に輝く世界は、僕らには関係がなかった。
僕の隣には、酒臭い男が座り、反対側には足の裏が真っ黒な素足の男が笑う。目の前には『父 母』と刻んだマッチョがいる。これが現実なのだと思った。
明日、僕はマレーシアへ行く。この国が僕に残したのは、何かがずれたままでも成立してしまう世界の感触で、ポケットには小銭が残っていた。

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それらしくなってきた

九月十一日、午前九時。
昨夜、あの黄緑色の眩いファンクサウンドの余韻は、今や毒々しい二日酔いへと姿を変え、僕の脳髄を内側から金槌で叩き続けている。
「もう一泊、泥のように眠っていたい」
そんな甘えが喉元まで出かかったが、僕は己に鞭を打った。今日、僕は四カ国目、マレーシアへと駒を進めねばならない。

前日の黄緑ライブの少し前。
「マレーシアまでの最安の移動手段」と聞いて、様子見に向かったバス発着所は、砂利の空き地に中華屋台がいくつかこびりついているだけの、ターミナルと称するにはいささか図々しい場所だった。
だだっ広い敷地の中央に、虹色の小さなパラソルがひとつ、その影に五十センチ四方ほどの木のテーブルが置かれていて、そこに老人がひとりへたり込んでいる。それが受付であり、チケットセンターでもあるらしい。
こんな場所で国境を越える乗り物を扱っているのかと面食らったが、「二ドル」と聞かされた途端、すべてがどうでもよくなった。どうでもよくなったついでに、その夜はビールをたらふく飲んだ。

「二ドル、二ドル」
僕は、まるで宝探しでもするかのように、ズボンのポケットや財布の隅々を探った。しかし、指先に触れるのは虚しい小銭の感触ばかり。かき集めた全財産は、わずか一・三ドル。
「足りぬ。七十セント、足りぬではないか」
昨夜、ライブでのあまりの解放感に身を任せ、バーで高い酒を煽り倒した己の蛮行が、今になって鋭い刃となり、僕の旅路を寸断しようとしていた。
僕は、いまだ「んんごぉぉ」と野生の咆哮を上げ続けるホンコンの体を揺さぶった。
「七十セント、恵んでくれ。さもなくば僕はここで野垂れ死ぬ」
しかし、彼は未知の言語で「んもっぷ」と呟くと、再び深い眠りの淵へと沈んでいった。作戦失敗。僕は諦念とともに荷物をまとめ、宿を後にした。
エントランスを出た瞬間、「シン」と僕を呼ぶ声がした。スティーブが、素足のまま見送りに来てくれたのだ。
「次はオーストラリアのパースに来い。パーティをしよう」
その眩しい友情を前にして、「七十セント貸してくれ」などという卑屈な言葉を吐けるはずもなかった。僕はただ、力なく微笑み、彼と固く握手を交わした。

銀行のATMにカードを叩き込むが、最低引き出し額は五十ドル。七十セントのために五十ドルを降ろすなど、もはや敗北を意味する。僕は窓口の男に窮状を訴えた。
「フィリピンペソなら少し持っている。どこかで替えられないか」
男は親切にも、「マスタフ・センターなら扱っているかもしれない」と、くれた地図に印をつけてくれた。
しかし、歩くこと二十分。辿り着いたのは、ただのゴミ置き場だった。
マスタフとは、絶望の隠語か。所持金一・三ドルという極限状態にある僕は、水すら買えずに喉を焼いている。二日酔いの吐き気と脱水症状が、僕の意識を混濁させる。
僕は通りがかった大きなホテルに、さも宿泊客のような顔をして侵入した。フロントには、一人のホテルマンが立っていた。
「マスタフ。マスタフはどこですか」
僕は、瀕死の獣のような声で繰り返した。男は僕を一瞥した。その視線には、明らかな困惑と微かな嫌悪が混じっていた。
無理もない。鏡を見るまでもなく、今の僕は「人道的な配慮が必要な不審者」そのものだ。だが、言わせてもらえば、目の前に立つお前も大概ではないか。

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男の髪型は、客を混乱させるために設計されたとしか思えない代物だった。サイドと後頭部を極限まで刈り上げ、トップだけを残すスタイルは珍しくないが、刈り上げる範囲を誤ったのか、あるいは途中でバリカンが暴走したのか、その境界線は前髪の生え際ギリギリまで侵食していた。結果として、彼の頭頂部には「亀の子束子」がポツンと乗っているかのような、奇妙極まりない静物画が完成していたのだ。
さらに、ホテルマンとしての矜持をどこかに置き忘れたのか、制服の下からのぞく派手なシャツの襟は不自然に反り返り、外に飛び出して、存在を主張している。
僕という「汚い不審者」と、彼という「前衛的な不審者」。
静寂の中で、二つの歪な存在が火花を散らす。カメノコは、僕という異物を景観から排除したいという欲望を抑え込み、どこか人間味を欠いた無機質な声で答えた。
「ムスターファ・センターのことですね。ここを真っ直ぐです」
彼は、僕の体に触れることを極端に避けるような手つきで、銀行でもらった地図に線を引いてくれた。その丁寧な筆致が、かえって僕の惨めさを際立たせる。
ようやく辿り着いたマスタフ、あるいはムスターファで、僕は五百ペソを十二シンガポールドルへと錬金することに成功した。両替所のおばちゃんは「マスタッファ」と発音した。結局どれが正解かわからぬまま、手にした紙幣を握りしめ、急いだ。

バスターミナルに着いた僕の残金は、十三・三ドル。
「二ドルでチケットを買い、残りの十一ドルで八ドルの炒飯を食い、一・五ドルのコーラで喉を潤す。完璧な計算だ」
僕は勝利を確信し、二ドルを払う。チケットを握りしめて隣の中華屋へ向かおうとした。その時である。
「おい、どこへ行く。バスに乗れ」
チケット売り場の中年男が、血管を浮き上がらせて怒鳴り散らした。
「いや、腹が減っている。次の便にするから時間を変えてくれ」
「ダメだ。もう発行した。今乗るか、チケットを捨てて新しく買い直すかだ」
計算が、瞬時に崩壊する。
買い直せば、再びバス代の二ドルが必要になる。そうなれば、炒飯とコーラのどちらかを諦めねば、またしても「二十セント足りない」という地獄のループに陥るのだ。
「あと何分で出るんだ」
「今すぐだ。お前を待っているんだ、はやくしてくれ」
僕は、飲まず食わずのまま、逃げるようにバスの座席へ身を沈めた。
しかし、どうしたことか。
バスは一向に動かない。
「今すぐ」と言い放ったあの男の暴言は何だったのか。三十分間、バスは静寂を保ったまま、僕の空腹を嘲笑い続けた。
「ふざけやがって」
三十分あれば、あの炒飯を十皿は平らげ、コーラで喉を洗浄したあと小便もできたはずだ。この理不尽極まりない停車時間は、僕の生存本能に対する明白な嫌がらせに他ならない。
しかし、ようやくバスが重い腰を上げた時、僕は悟った。
結局、僕のような男は、一人で腹を空かせて、ガタガタ揺れるバスに揺られるしかないのだ。スティーブの裸足の友情も、ホンコンの野生のいびきも、黄緑さんが見せた一瞬の残光も、そのすべては、この猛烈な空腹と喉の渇きを一時的に紛らわせてくれるだけの贅沢なノイズに過ぎなかった。
僕はポケットの中で、使い道のなくなった十一ドルのシンガポールドルを弄んだ。
僕は、空腹の極致で国境を越える。
それらしくなってきた。