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九歳の講師と旅程の鎖

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「これで三対八だよ」
少年は長くベットリとした髪を揺らしながら、まだ声変わりの済んでいない高い声で、勝ち誇ったように言った。
「ま、まだ分からんさ」
僕はバギオの、犬の糞と排ガスが渾然一体となった汚い空き地で、少年の姿をした賢者レイモンとフリースロー対決をしていた。
バイクのホイールをひん曲げて造作したような無慈悲なリングに、空気が抜けて固まる前の紙粘土のようにブヨブヨになったバレーボールを放り投げる。先に十ポイント取ったほうが、コーラを奢ってもらえるという、極めて資本主義的なルールだ。
「今ごろグループクラスをやっている時間かな」
今日もまた、僕は神聖なる学び舎をサボってしまった。授業料を納めている以上、一応の後ろめたさがあり、罪悪感にまみれた手つきで放ったシュートが、美しい放物線を描くはずもなかった。
僕は、教科書の死んだ文字よりも、偶然出会った九歳のレイモンと泥にまみれることに、唯一の生々しい価値を感じていた。それは、どこへも辿り着けない僕にとっての、魂の停泊所のようなものだった。

残すところ、あと二週間。ここ数日、僕は「登校拒否」という恵まれた家庭の子息がなす贅沢な静養を決め込んでいたが、放課後に地下の大ホールで「お楽しみ会」なる催しがあると聞き、重い腰を上げた。こんな僕でも「お楽しみ」の鱗片くらいは舐めさせてもらってもいいだろうと判断したのだ。

「グッモーニン、シン。久しぶりね。授業ならトレイシーのところに行ってくれるかな。エヴリンじゃなくてね」
学長であるアマンダが、早朝の鳥のように快活に言った。
僕はエヴリンの担当から外されたと知り、見えない何かに軽く頭を叩かれたような衝撃を受けた。英会話の上達は、文法でも発音でもなく、彼女に向けて投げていたどうしようもない小話、その無駄の往復によって支えられていたのだと気づいたからだ。
あれほどよく笑い、しかも美しい人間はそう多くない。笑いというのは本来、そんな気前よく他人に配るものではないはずだ。
もちろん、この喪失感があの過剰に充実した胸部、いわゆるデカパイを拝めなくなることに由来するなどという、あまりに即物的な理由であるはずがない。ないのだが、そう言い切るには人というものは少しばかり単純すぎる気もした。

それにしてもトレイシー。聞いたこともないが、妙に艶っぽい名だ。去り行くアマンダの背中をぼんやり眺めている僕の背後から、鼻声の、室外機のモノマネをする時のような声がした。
「ア・タ・シ。あなたがシンちゃんね。アタシがトレイシーよ。例の。例のやつ。むふふ」

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現れたのは、頭髪を熟れすぎた柿のような橙色に染め上げた、とんでもない筋肉量を誇る大男兼、大オカマであった。目の周りには毒々しい紫の化粧を施し、胸元にはフリルのついた、見る者が眼を逸らしたくなるほどフェミニンなシャツを纏っている。
彼は、あるいは彼女は、重力に従うが如く当然の権利としてそこに存在していた。周囲の人間もまた、その性別の深淵に触れることがもたらす「社会的な死」を直感的に理解しており、表面上は平然を装いながら、どこかぎこちない距離を保った態度で接していた。

困惑の極みにいると、かつての三限目の担当講師、リリーが通りかかった。
「あっ、リリーおはよう」
「えっと、キミ、名前なんだっけ。ああ、シンね」
膝から崩れ落ちそうになった。休みすぎて、僕の存在は彼女の記憶の地層から完全に洗い流されている。僕はここでは、すでに歴史の闇に消えた過去の遺物、あるいはただの「歩く授業料」に過ぎなかったのだ。

トレイシーによる、精神の筋トレのような熱い文法クラスを終えたあと、僕は日本人マネージャーのイロジロに呼び出された。
「シンさん、アマンダ先生がお話があるそうです。通訳が必要になるかもしれないので、僕も同行します」
連行されたのは、権威の匂いが漂う学長室だ。

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「あなたが休むと、担当の先生の一コマ分のお給料がなくなるの。生徒の欠席が原因だとしても、こちらが一時間無駄に給料を払えないのは分かるでしょ。学校だってビジネスなんだから」
アマンダの正論が、鋭利な刃となって僕の不誠実を切り裂く。
「はい、すみません」
申し訳ない。僕が空き地でコーラを賭けていた裏で、誰かの生活が削られていたのだ。
「つまりこういうこと。シンのように来たり来なかったりする生徒を、誰も担当したくなくなるわけ。エヴリンとリリーがあなたの担当から外れたのはそういう理由よ」
なるほど、あの橙色のマッスル・オカマが僕の前に降臨した背景には、そんな世知辛い経済の力学が働いていたのか。
「ここまで分かりましたか。説明しましょうか」
イロジロが、感情という機能をあらかじめ取り外したような顔で問う。
「ええ、アマンダがゆっくり話してくれたので、だいたい分かりました」
アマンダは、小さく頷いたイロジロの気配を受け止めると、そのまま視線を僕へ移し、どこか母親じみた、やわらかな眼差しで言葉を継いだ。
「グッド。一ヶ月前にあなたが初めてここに来た時、何も聞き取れていなかったわね。でも今はどう。たった一ヶ月で私と会話ができているじゃない。成果が出ているってことは、授業に意味があるということなのよ」
「仰る通りです」
彼女の言葉が、僕の怠慢を優しく、しかし確実に糾弾する。申し訳なさが胃のあたりで重たく沈殿した。
「シン、あと二週間ね。もう少しで終わりなんだから、できるだけ頑張って授業に出てくれないかな。自分の英語のためであり、先生たちを助けるためでもあるのよ」
「はい、猛省します」
二十六歳という、若さの貯金を使い果たしつつある僕の脳細胞は、もはや吸水性を失った濡れタオルのようなものだ。しかし、それでも絞れば何かしらの変化が滴り落ちる。イロジロと廊下を歩きながら、彼は追い打ちをかけるように言った。
「女性の先生がハグしてきたりするのは、生徒を繋ぎ止めて、怠惰による欠席を防ぐためであり、つまり金のためですよ。色仕掛けです。勘違いすると、痛い目見ますよ」
それはアマンダは言っていなかったはずだ、イロジロよ。


気怠い空気の中、僕はさっちゃんの部屋でフィリピンのビール「サンミゲル」を煽っていた。
「エマちゃんが『シンはどこ』って探してたよ。最近のシンくん、全然学校来ないし何かあった?」
「路上で暮らしてるレイモンからのほうが、生きた英語を学べる気がするんだよ」
「生きた英語か。確かにそうかも。『ファック』とか『シット』とか、そういうのは授業で習わないもんね。ひひひ」
さっちゃんの笑い声が、僕の青臭い理屈を軽快に突き放す。
「でも本当は授業が面倒なだけでしょ。わたしは知ってるよぉ。ひひひ」
彼女には何もかも見透かされている。
僕はルームメイトのキノコやその他の韓国人たちとの微妙な距離感から逃走し、彼女の部屋という安息地に寄生していた。
「シンくんはあと二週間、八月末までじゃん。私は十二月までだし、相部屋だとルームメイトが帰った時に寂しいでしょ。だから私は最初から一人部屋なんだ」
「さっちゃんでも寂しいとか思うんだね」
「思うよ。シンくんがもうすぐいなくなるのが、一番寂しい。ひひひ」
その言葉の温度に、僕は言葉を失う。
僕は、彼女のような余裕を持った人間に、抗いようもなく惹かれていた。
「バギオを出て、一緒に旅をしよう」
喉元までせり上がった言葉を、無理やり胃袋へ押し戻す。放浪者としての僕の性分が、誰かの人生を道連れにすることを拒絶する。もし彼女の予定を狂わせ、挙句の果てに僕が逃げ出したとしたら。その罪悪感で僕の自意識は木っ端微塵になるだろう。
「ふむふむ。シンくん、何か考えてるね。わたしには分かるんだ。ひひひ」

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酔いと、彼女の眼差しから逃れるように、僕は一つの決断を下した。
「マレー半島を南下する小説があるんだよ。バンコクからシンガポールまで。僕はそれをやりたい」
「いいじゃん、ひひひ」
「でもさ、お前さん深夜特急読んだだろ、みたいなことを誰かに言われると、恥ずかしくなって、早急にアジアを出て、トンガにでも逃げ込んで、草の冠被ってファイヤーダンスか何かを始めてしまうかもしれない。それは出来れば避けたいんだ。だから逆に北上することにした。マレー半島をね。今決めた」
僕はその場でマニラ発シンガポール行きの航空券を、震える指で決済した。さっちゃんはノートPCを開き、ファイヤーダンスのやり方を嬉々とした表情で調べている。旅程という鎖を自分に巻き付けることで、バギオから、そしてさっちゃんという甘やかな誘惑から、強制的に自分を引き剥がしたのだ。

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「どっちが勝っても、どうせコーラは僕が買うんだろ」
「ははは、もちろんだよ、シン」
レイモンが笑うたび、Tシャツの内側で骨ばった肩が小さく動く。布越しに、その軽さだけが先に伝わってくる。九歳だと言うが、もっと下に見える。
バギオは標高一五〇〇メートルにあるくせに、ときどき急に暑くなる。理屈は知らない。ただ、逃げ場のない熱だけがそこにある。レイモンを見つけたあの日も、そうだった。

学校を抜け出し、入り組んだ住宅街をあてもなく歩いた。直射日光がまとわりついて離れず、たまらず、トタンと木材が雑に積まれた資材置き場の、わずかな日陰に身を滑り込ませた。
そこには先客がいた。地べたに座り込んだ、汚れた格好のレイモンは廃材の影の縁をなぞるみたいに、ボールを転がしていた。破れた有刺鉄線の向こう、落書きとゴミに埋もれた小さな空き地で、額と汗を袖で拭いながら僕の口は自然と動いた。
「この日陰、涼しくて気持ちがいいね」
レイモンは顔を上げる。その目は、なにかを確かめるみたいに、静かだった。
「日本人、韓国人」
そう言って彼は、何かくれ、とでも言うように、細く小さな手を黙って差し出した。
不気味なほど静かで、子ども相手なのに、僕は一瞬だけ身構える。だが、その目に危うい色はない。こちらとあちらのあいだに、境目らしいものが見当たらなかった。
逃げるでもなく、気づけば口にしていた
「フリースローで僕に勝ったら、コーラを買ってあげるよ、日陰の使用料として」
言ってから、わずかに引っかかった。距離を保つ方が無難だと分かっているからだ。ただ、それを守る義務があるわけでもない。
それ以来、僕らはこの空き地でボールを回し、ときどき空き地の外に出て、行き先も決めずに歩いた。会話は多くなかったが、途切れもしなかった。
その続きのように、僕らはまだボールを回している。
「ドリブルなら勝てるんだけどな。このボール、空気が抜けてるからさ」
僕はそう言って、軽くなりすぎたボールをリングに放る。
「はは、ワン・オン・ワンでも負けないよ」
レイモンは言う。僕は外れたボールを拾い上げて、レイモンに返しながら言った。
「じゃあ明日で決着をつけよう。明日でここに来るのは最後だ」
レイモンは僕の拙い英語を、途中で何度か言い直させながら、真剣に拾い上げていった。ようやく意味が届いたらしく、ふいに大粒の涙をひとつだけこぼして、小さくつぶやく。
「学校は、もう終わりなの? シンは英語が下手じゃないか」
言い終えても、彼は目を逸らさず、早く答えろと言わんばかりに僕をじっと見つめていた。それに応えてやりたいのに、僕の知らない感情が胸の奥から込み上げて、言葉が出ない。
レイモンは少し息を整え、手のひらを膝に置いたまま静かに待っていた。
シンガポールに行く、と言うと、レイモンはすぐに顔を上げる。涙の跡だけが、まだ乾いていない。
「いいかい、お前の名前は『Shin』だけど、シンガポールは『Sin』から始まるんだよ。『スィ』だ、言ってみてよ」
僕は口を動かす。
「スィンガポー」
舌の置き場を探るように、ゆっくり繰り返す。レイモンは笑顔で頷いた。
「それだよ。ほら、シンはまだ英語が下手だから、学校に終わったからって言うんだったら、今度はぼくが教えてあげる。だから、また来てね、シン」
笑っているのに、さっきの涙の名残が、どこかに引っかかっている。

後日、僕はバギオの街で安物のバスケットボールを購い、あの空き地へ向かった。しかし、そこに少年の姿はなかった。聞こえた通り呼んでいたが、「Raymond」の「d」は、果たして発音すべきだったのか。せめてそれくらい、聞いておけばよかった。
僕は一人、廃材の山に向かって小さく「レイモン、ドゥッ」と呟いた。
散らばるゴミの中に、僕たちの拙い勝敗を刻んだ段ボールが、死体のように転がっていた。僕は買ったボールに大きく「RAYMOND」と書き、瓦礫の裏へと隠して大通りへ出た。

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長い夜

二〇一三年八月二十九日。
タクシーを降り、野良犬の視線をやり過ごしながら階段を上がる。扉の向こうから、宴の騒ぎがすでに漏れていた。入る前から、だいたいの温度がわかるのはありがたい。
貸し切りのレストランで開かれていたのは、語学学校一の人気者、メガネくんの送別会。善人が去るとき、人は派手に騒ぐ。残される側の不安をごまかすためだ。

目立つ主役を避け、馴染みの仲間の影に潜り込む。封を切られず期限を迎えるゼリー飲料のごとく、僕は静かに存在を薄めていた。いっそ壁のサイケデリックな模様の一部にでもなれたら楽だ。何にも役立たないという決定的な安らぎが、そこにはあった。

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だが突然、同期のおかめが「あっ、シンさんがいる」と指を指した瞬間、平穏は無慈悲に霧散し、一同の視線が毒針となって一斉に僕を刺した。
「なんでまだおんねん」とナニワさんの関西弁が鋭く鼓膜を叩き、「ヤダ、どこで寝泊まりしているのかしら」とタマネギの糾弾が始まる。そこへワセダくんが立ち上がり、「なんか大学の時の先輩に久しぶりに会った感じっす、あっ早稲田の」と、学歴の香料を漂わせながら、大袈裟なハグで物理的な圧をかけてくる。
「シンはまだバギオにいたのか、ガハハ」
トミオが大声で放り投げた無味乾燥な事実が、僕の不法投宿という罪を際立たせる。
なぜまだいるのか。なぜ今日ここにいるのか。鋭利な質問の礫を浴びるたび、僕の頭は迷走を極めた。
「まあ、浮世の義理といいますか、春風のようなものです。あるいは汲み取り式便所にたかるハエの――」
自分でも何を言っているのかさっぱり不明だ。
それもそのはず、僕は二週間前に六週間のカリキュラムを終え、名目上は学校を去った「過去の人」になっていたのだ。講師陣や日本人マネージャーが顔を揃えるこの席に、亡霊のごとく現れるのは、あまりに気まずい状況だったのである。
近くに座るりょうちゃんが、僕の窮状を察したのか、献立表を親の仇のように睨みつけて声を張り上げた。
「ねえみんな、今日ひとり五百ペソって、安いよね。え、正気?」
四十カ国を股にかけた放浪の猛者たる彼女は、その研ぎ澄まされた金銭感覚という抜き身の刀で、強引に話題を切り裂いてみせたのだ。しかし、隠密を気取っていた僕の存在は、いまや白日の下に晒され、バレバレもいいところだった。
フィリピンのレストランという場所には、何故か不可解なほどカラオケが常備されている。
そこへトミオがマイクを握り、松山千春の『長い夜』を歌い上げはじめた。誰一人として喜ぶ者がおらぬまま、その暴力的な騒音のバリアが、僕の存在をうまく世間から隠匿してくれた。

騒音の隙間から、りょうちゃんの声が低く届いた。
「そういやシンはもうすぐシンガポールだよね。あの国の物価は安くなかったぞ。チケット、いくらだった」
「マニラから六千円くらいかな。安いよね」
「いいの見つけたじゃん。で、いつ」
「九月十日」
「むむ、九月、十日」
彼女は天井に貼り付いた記憶でも剥がすみたいに、ふと上を向いた。
僕が八月十六日の卒業から三週間も先にシンガポール行きを設定したのは、単純な欲からだった。
バギオしか知らない僕は、一箇所や二箇所、フィリピンの別の土地を観光し、その後に悠々と出国しようという、極めて甘美な計画を立てていたのだ。何より、九月十日が一番安かった。それだけの理由だ。
それを聞きつけた周囲の仲間たちがボラカイ島やボホール島の名を挙げて騒ぎ立てる中、隣に座るさっちゃんも「ひひひ、どこに行くのかな」と、慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
しかし、僕が未だにバギオに居座っている真の理由は、単なる寂しさに他ならなかった。
さっちゃんや仲間との別れを恐れ、独り旅という荒野へ踏み出す勇気を、僕はめんどくさいという、都合の良い言い訳でコーティングして誤魔化していたのである。
だというのに、りょうちゃんの表情は、いまや世界の終わりを予感した預言者のように険しい。
「ちょっといいかな。ねえシン、それヤバいかもよ」
「ヤバいとは、いかがなされた」
「ビザ」
彼女の宣告は、僕の脳髄を静かに、しかし鋭く貫いた。僕はその単語をトマトソースの円盤のことだと脳内で誤変換しようとしたが、彼女の冷徹な眼光がそれを許さなかった。
「わたしもシンと同じで二ヶ月のビザだったのね。延長したからまだいるんだけど。シンが入国したのは七月の、確か初めの方でしょ。ってことはだよ、九月十日までいちゃダメじゃん。その飛行機、乗れないかもよ、オーバーステイで」
その瞬間、十二指腸のあたりで誰かが急ブレーキを踏んだような、「あ、これはまずいな」という理解だけが先に来た。
安い、安いと喜んで買ったチケットの日付は、僕の法的存在を抹消する、音の出ない時限爆弾だったのだ。
「僕は、救いようのないアホであります」
「でも、でもさ。シンの滞在日数のことは私も詳しく知らないし、一回ちゃんと確認してみたら。ほら、ちょうどイロジロがいるから聞いてみたらいいじゃん」
りょうちゃんが指差した先には、学校の日本人マネージャー、アンドロイドではないかとも噂される、通称イロジロが座っていた。

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僕は、全身の毛穴が逆立つような恐怖に襲われた。
なぜなら、僕は分かっていた。学校が管理する寮内の「さっちゃんの部屋」に、僕が卒業後もこっそり寝泊まりし、学食の白飯を無断で貪っているという、人道に反する寄生行為を続けているということを。
ここでイロジロに接触すれば、僕の不正はすべて明るみに引きずり出される。宿代の遡及請求、あるいは公開処刑。大人になってまで、しかもこの三十人の眼前で怒られるなど、僕の脆弱なプライドが許さない。
何より、さっちゃんと「甘やかな不純異性交遊」に耽っていたことがバレるなど、恥ずかしさで五体が爆散してしまう。
明らかに動揺する僕を見て、りょうちゃんが呆れたように口を開いた。
「シン、みんな知ってるよ。さっちゃんの部屋にいること」
僕は、言葉を失った。周囲を見渡せば、仲間たちは「知ってたよ」「いやらしい」と、待ってましたとばかりに無慈悲な追認を投げかけてくる。
僕は、自分が誰にも気づかれずに隠密行動をしている忍だと思い込んでいたが、実際には衆人環視の中で全裸で踊っている道化に過ぎなかったのだ。気づいていないのは、こちらの方だった。
さっちゃんだけは「ひひひ、みんな知ってるんだね」と、泰然自若としている。なぜ君はそんなに落ち着いていられるのだ。
「そんなことよりシンさん。ビザの話ですよね。具体的な日数と日付をお答えしますよ」
死神の如き足音とともに、イロジロが現れた。聞かれちゃいけない人に、聞かれていた。
「あっ僕も二人のことや寮の無断使用知ってましたよ。あと酒類の持ち込み、無断の学食利用も。そんなのは全然いいとして、パスポート見せてもらっていいですか」
い、いいのか。
僕は椅子から転げ落ちそうになった。不正行為への追及よりも事務手続きを優先する彼の徹底した合理性に、僕は恐怖すら覚えた。
「シンさんのビザはフィリピン入国日から五十九日目までの滞在を許可するものです。七月五日に入国していて、今日は八月二十九日なので五十五日目です。つまり九月二日までの、あと四日間しかフィリピン国内に滞在できません」
あと、四日。

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具体的な数字を突きつけられ、目の前が真っ白に、いや、どちらかというと少し濁ったカフェ・オ・レのような色になった。紙に書いて状況を可視化すると体が震え出した。

イロジロは、スキャナーのように僕のパスポートを凝視しながら言った。
「今のシンさんには三つの選択肢があります。

一、九月十日のチケットを捨てて、四日以内に出国する便を買い直す。今のものが無駄になり、さらに金はかかるが確実です。

二、別の国へ行って、すぐにフィリピンに戻ってくる。フィリピンは再入国が容易です。九月十日のチケットも活かせるが、移動の手間と道中のトラブルのリスクがあります。

三、ビザ延長手続き。学校で手続きすれば六千円ほどで済む。ただ、日本人マネージャーに話が行くので宿代を請求され、さらに『シンさんがエロいこと』が公的に証明されます」
「エロいとは、何の話でしょうね」
僕が力なく抗弁すると、周囲は野卑な肯定の声を上げた。会場は一瞬にして、僕の人格を好色一代男として固定する合唱に包まれた。
外野が騒ぐ中、さっちゃんがひときわ明るく言った。
「三だよ、三。ひひひ、なるべく長く一緒にいたいじゃん」
その甘すぎて全歯同時に虫歯になるような甘い主張に、僕は恥ずかしさのあまり逃げ出したくなった。
周囲は、やっだぁもう、隅におけないわね、かわいすぎて屁が出ます、さっちゃんの破廉恥雌狸、などと好き放題に囃し立てる。
どうやらもう、彼女にとってロン毛の浮浪者を自室に匿っている事実は、秘密でも何でもないらしい。秘密というのは守る気がある人間のもとにしか存在しない。
「でもさ、シンくんはバックパッカーなんだから、二番がいいんじゃない。航空券を捨てるのも延長するのもラクな方法だけど、単純にお金を損するだけでつまんないよ。急に知らない国へ行く方が、バックパッカーなら損じゃないと思うな。ひひひ」

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た、確かに。聞いた瞬間、僕の脳内に、ある種類の汁がじわりと分泌された。
航空券を捨てるのは敗北だ。ビザの延長は、己の怠惰への追認だ。だが、予定になかった国へ飛び込むこと、それこそが、僕が憧れた漂泊という行為の本質ではないか。
「決めた。僕はどこかへ行って、またフィリピンに戻ってくる」

イロジロがバリなどを提案する中、りょうちゃんが玄人旅人が使用していそうな、見たこともない航空券検索サイトの画面を見せてきた。
「シン、台湾はどう。すっごい近いしチケットが安いんだよ。見て、明日発のフィリピン、台湾往復一万円」
「明日、ですか」
あまりの急展開に、全身が武者震いした。台湾。これまでの人生で一度も意識に登らなかった地。しかし、彼女のスマホ画面を見た瞬間に、僕の逃走本能が激しく煽られた。
決断は恐ろしく速かった。事態の急変により、ようやく本物のバックパッカーとしての第一歩を踏み出す予感が、僕の体を静かに震わせたのだ。
「急に台湾に行きたくなった。明日、台湾に行きます」
仲間たちの乾杯の声が、再び響き渡る。
「シンくんのお別れ会になっちゃったね、ひひひ」
知識ある仲間と、過剰な僕の逃避癖が結びつき、事態は風雲急を告げる。
バギオでの温室生活は、こうして不法滞在の恐怖と、台湾という名の副反応によって唐突に幕を閉じることとなったのである。

だが、宴が終わり、独りになると、高揚感などという立派なものは、瞬く間に泥水のような自己嫌悪へと姿を変えた。
結局、僕はいつだってそうだ。高い志や、ほとばしるモチベーションといった高尚なエネルギーに突き動かされたことなど、この二十六年間の人生で一度たりともない。
バギオの安さに甘え、さっちゃんの部屋という温室で、金が尽きるまで無為に時間を食いつぶす寄生虫。そんな見苦しい性分が、物理的な期限という名の「ケツへの蹴撃」を喰らって、ようやく這い出すのだ。情けない。情けない。情けない。
成田を飛び立つ時には不思議と感じなかった不安が、いまさらになってイナゴのように押し寄せてくる。それはアジアの治安や未知への恐怖ではなく、自分の「欠陥」に対する、根源的な怯えだった。

坂の下で

二〇一三年八月三十日。
前夜の喧騒と、自分の無能さに対する絶望的な二日酔いを抱えたまま、僕は「クラーク国際空港」へと向かうことになった。
クラーク。なんぞそれ。

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りょうちゃん曰く「バギオからはマニラに行くより近いし、台湾行きなら航空券も安い。往復一万円の黄金ルートだぞ」とのことだが、僕にとっては地の果ても同然である。
昨夜メガネくんのお別れ会の熱気が冷めやまぬうちに、りょうちゃんのスマホ画面を震える指で叩き、台湾行きのチケットを確定させた。
そうして翌日。僕はバックパックに荷物をこれでもかと詰め込み、さっちゃんの部屋を出た。
彼女は授業に出ているのか姿はなく、それがかえって好都合だった。昨夜、彼女を含む仲間たちには十分に別れを告げた。これ以上、湿っぽい見送りなど受けようものなら、僕の豆腐のような決断力はたちまち崩壊し、台湾行きをキャンセルして、またあの部屋の隅にカビのように居座りかねないからだ。
寮の長い坂を下り、タクシーの捕まる大通りへ向かう。背負った荷物の重さが、そのまま「ひとり」になることの物理的な重圧となって肩に食い込む。
だが、その孤独を切り裂くように、後方から絶叫が響いた。
「シーーーン!」
振り返れば、そこには元ルームメイトにして、いまや絶縁状態にあった韓国人のキノコが、肩で息をしながらこちらへ猛進してくる姿があった。
「はぁっ、はぁっ。シン、ドンキから今日だって聞いたぞ。去る前に一言くらいあってもいいだろう」

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一ヶ月以上、僕は彼と口を利いていなかった。
かつて韓国人のデブに胸ぐらを掴まれ、暴言を吐かれ、その屈辱をこの男に動画に収められたあの日から、僕の心には冷たいシャッターが下りていた。コップ満タンの強い酒を強要し、それを「男らしさ」と呼ぶあちらの文化と、僕の貧弱な精神性は、どうしても混ざり合うことがなかったのだ。
「そっちこそ、なにか言うことはないのか」
僕は冷淡に言い放つ。言い放ったはいいのだが、今さら「ごめん」などと言われても、僕の狭量な心は少しも動かない。今の彼に悪気がないことなど百も承知だ。ただ、国民性の違いというその差だけが、どうしても埋まらない。
「行くよ。じゃあね」
僕は右手を差し出してきたキノコを無視し、再び坂を下り始めた。
ポケットから手を出さない自分の度量の小ささに嫌気がさしたが、それ以上に、僕の醜い箇所を露呈させた彼の不本意な登場に腹が立った。
いつだか彼にもらった大容量のモバイルバッテリーは、いまもバックパックの中に入っている。こういう物は裏切らない。人間関係と違って。感謝くらい伝えればいいのに、どうにも体がそれを拒否する。
あの一件がなければ、僕らはもう少しだけ楽にやれたのだろうか。

「おい! シン!」
二十メートル先から、キノコの叫び声が再び降ってきた。
「Take care, okay? Enjoy your trip!」
ごめんでも、ありがとうでもない。相変わらずの先輩面をしたその言い方に、かつての図々しくも世話焼きだった彼の面影が重なり、僕は不覚にも視界が滲みそうになった。
だが、僕は戻らない。二十メートルの坂を登り直すほど、僕の心は立派にできていない。

坂の下で待っていたさっちゃんによれば、キノコは僕の背中に向かって、ずっと満面の笑みで手を振っていたという。
「なんでいるの」
「サプライズだよ。ひひひ」
坂の下、タクシーの横で、彼女はひどく楽しそうに笑っていた。
「部屋で別れると『見送りいらない』って言うでしょ。わたし、分かるんだ。だから無理やりにでもバスターミナルまで行くよ。ひひひ」
か、可愛い。ネイティブの発音ではキャワウィと言う。
この土壇場において、彼女のホスピタリティは神の領域に達していた。
「タクシー呼んであるから。ほら、来たよ、ひひひ」
頼りになりすぎる。これから一人でやっていける自信が溶けていく。
バスターミナルへ向かうタクシーの中でも、到着してからも、さっちゃんはずっと喋り続けていた。
いつもは聞き役に徹する彼女が、「それでね!」「あとね! 聞いて聞いて!」と、止まることなく言葉を紡ぐ。それが寂しさを紛らわすための必死のパフォーマンスであることに、鈍感な僕でも気づかないはずがなかった。
バスを待つ間、近くの薄汚い屋台で、二十ペソ、四十五円ほどの灰色のスープ麺を啜った。
輪ゴムのような食感の麺と、得体の知れない肉。
「悪い。最後くらい美味いのにすればよかった。ジョリビーとかさ。」
ふと見れば、あんなに喋っていたさっちゃんが口を閉じ、ボロボロと涙をこぼしていた。

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「まずいね。ぐすん。ぐすん。まずすぎて泣いちゃったよ」
僕は胸が締め付けられた。
「うん、まずいね。本当にまずい」
僕も、スープのせいにして目を伏せた。
『DAU』と手書きされたプレートを掲げた大型バスが、砂埃を上げて滑り込んできた。
「日本人だから、ハグはしないよ」
「そうだぞ。みっともないからね、ひひひ」
爽やかに、グッと一度だけ握手を交わした。
標高が高く、永遠に冬が続くかと思われたバギオともこれでおさらばだ。ナイトマーケットで買った青いパーカーは、「荷物になるから」と嘘をつき、さっちゃんに譲っていた。なんとなく覚えてくれてたらいいと思った。

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バスに乗り込み、三時間の路程が始まる。
だが、発車してすぐに、僕は激しい後悔に襲われた。
「エアコン効きすぎ。死ぬほど寒い。調子に乗ってパーカー、あげなきゃよかった。失敗。明らかに」
震えながらDAUターミナルに到着し、ガラの悪いオヤジのバイクタクシーに揺られて、クラーク国際空港へと滑り込む。

ひとりになった途端、昨日よりも、成田の時よりも、激しい不安が津波となって押し寄せてきた。ただ、「不安だよね」と同意し合える他者が消えたという事実が、僕を底なしの孤独へと突き落とす。
だが、その恐怖の裏側で、不思議な気配を感じる。
「これかも」
これこそが、僕が日本を出て二ヶ月、求めて止まなかった「緊急事態」ではないか。
誰の助けも届かない、自分のだらしなさがそのまま死に直結するような、このヒリヒリとした危うさ。
何もかもが心配で、何もかもが怖くて、心臓が爆音で鳴り響く。
その不気味な高揚感に、僕は薄ら笑いを浮かべていた。
緑の巨大なバックパックを預け、保安検査場を通る。
事態の連鎖を、僕は変態的な悦びへと変換し、蒸し暑さともに噛み締めていた。
二カ国目へ。