旅人失格 第二章 ビギナー、国外排出済み
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息
成田という名の巨大な換気扇に吸い込まれ、分類不能な僕の肉体が世界へと吐き出される。
日本にとって、僕のような不純物は、焼肉の煙や石油ストーブの排気のように、定期的に外へ逃がしてやらなければならない類のものなのかもしれない。
社会という巨大な流れにうまく接続できない人間が外に出たことで、母国はほんの気持ち程度には浄化されるのだろうか。だとしたら、それだけでも今回の渡航には意味があったことになる。
僕は最初の行き先として、フィリピンの格安語学学校を選んでいた。そこで最低限の英語を身につけておけば、あとの旅もなんとか誤魔化せるだろう、という浅い見積もりでいたのだ。
一ヶ月六万五千円、三食付き。その安さに釣られた結果、僕は今、空飛ぶ監獄とも言うべきLCCの狭い機体の中で、自分の判断をすでに疑い始めていた。

僕の右隣に鎮座していたのは、息というものはここまで臭くなれるのだということを、ひとつの知見として突きつけながら、それを実地で証明してくるような異臭を放つ「息くさおじさん」だった。
この男の呼気といったら、もはや空気の範疇には収まらない。それは思想や哲学に近い、脳を直接刺してくるタイプのものだった。もしこれが日本の外の世界の標準なのだとしたら、僕はこの時点で旅そのものをやめていたに違いない。だが臭気というものは卑怯にも透明であるがゆえに、逃げ出すことができない。もし息に色がついていてくれたなら、とっくに逃げることができている。
「普段からうんこでもお召し上がりですか?」
喉元まで出かかったその言葉を、僕は出された渋いコーヒーと一緒に飲み込んだ。社会というものは、言ってはいけないことを言わないことで、かろうじて成立していると信じているからだ。
男は僕の挙動をじろじろと観察し、獲物を見つけた爬虫類のような目で笑った。
「ほほう、ははぁーん。どぉぅやらキミは、はぁじめてぇの海外とみたよぉ。ふふふ」
「は」や「ほ」など、発言に「は行」が多いと、漏れ出す息の量が増える。したがって彼の話し方は、その構造上、油断ができないものだった。
あの耐えがたい臭気とは裏腹に、男の発言には実用的な価値があった。入国カードの書き方やイミグレーションでの受け答えを、慣れた様子で淡々と教えてくれるのだ。
「フィリピンにはしょっちゅう来てるんだよ。目的? 秘密だよ、ふふふふふ」
「ああ、くさい。間違えました。へぇ、そうなんですねぇ」
秘密なら黙っていればいいものを。元デリヘルドライバーとしての僕の直感は、男の正体をほぼ自動的に組み上げていた。
格安航空会社Jetstarのエコノミーに揺られる、この息のくさおじさん。その目的地がフィリピンの格安売春宿であることを僕は見抜いた。かつての職場で何度も見た客たちと同じ目をしているからだ。僕はそれを確定事項として処理し、ただ無言で頷いた。

ふと視線を感じて左を向くと、隣のマダムが鼻を摘みながらこちらをチラチラと見ていた。その目は、深夜の公園で虚空に説法している、黄緑色のエナメルパンツを着用した男を見るような目だった。完全に結論の出た目だった。
いや、においの原因って僕じゃないですよ。
冤罪だ。しかも国境を越えている。
だが、その事実を証明する手段は、すでに機内のどこにも残っていなかった。
マニラ・ニノイ・アキノ
ようやく辿り着いたマニラ・ニノイ・アキノ空港。パスポートに初めて外国のスタンプが押されて、上機嫌で外に出た。次の瞬間、熱気と人の多さに目眩がした、と言いたいところだが、そんなことを言えば日本に申し訳が立たない。あちらも負けず劣らずの暑さなのだから。
そこでもみくちゃになっている男の手に僕の名を見つけた。

語学学校の日本人スタッフ「イロジロ」に案内され、蒸し風呂のように熱のこもったバンの後部座席へと押し込まれた。
彼の顔は死人のように白く、皮膚がこの南国の空気をどこか認めていないようだった。
「同じ便でもう一人到着しているはずなので、少しここで待っていてください」とイロジロは言う。
同じ便、同じ空路、同じ時間を経てきたはずの「もう一人」は、そこから一時間現れなかった。
一時間だ。本来なら、異国に降り立った直後というのは、もう少し新鮮な驚きのようなものがあるはずだった。だが現実には、人を待つというだけの時間がだらだらと続き、その間に「初めての異国」という事実そのものが、少しずつ古びていった。気づいたときには、目の前の風景はもう特別なものではなく、ただの暑くて面倒な場所になっていた。
一時間後、男は現れた。六十代くらいの背の高い男だった。プロゴルファーみたいな格好で、ジジイのくせに革靴だけがやけに艶めいている。鼻からは白くなった鼻毛が飛び出していて、それが本人の意思とは関係なく堂々としていた。偉そうな鼻毛だと思った。
男は悪びれる様子もなく、にこにこと笑っている。せいぜい四、五分待たせたくらいの顔だ。時間の感覚が、自分の都合で伸び縮みする仕様になっているらしい。

「待たせてごめんねぇ。そこの焼き鳥が美味そうでさ、ビール頼んで食ってたんだよ。はははは」
世の中というのはもう少し、気遣いとか後ろめたさとか、そういうものでできているはずだった。だがこの男にはそれがない。
世界には理解不能な人間がいるとは思っていたが、それがこれから同じ時間を共有する相手だというのは、どうにも現実味がなかった。僕はこの時点で、ささやかな出会いの清潔さみたいなものを、もうだいぶ失っていた。
男の名はトミオ。自称・百カ国渡航経験者、言葉選びを省くのであればクソジジイ。百個も国を回れば人間はもう少し落ち着くものだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。むしろ削れていく方向もあるようだ。削れていった結果としてこの男が出来上がっているのだとしたら、これから世界を旅する立場として、それはあまりなりたい姿ではなかった。

「わたし、最初ちょっと不安で。でもシンさんが同期で安心しました。わたしも初めての海外で、大学四年なんです。一緒に頑張りましょうね。え?好きなビートルズのメンバーですか。やだぁ。恥ずかしいじゃん。結構積極的なタイプなんですね、シンさん。ちなみにジョージかな」
このような甘酸っぱい出会いを僕はどこかで期待していたのだと思う。
しかし現実はこれである。

「ソーリーソーリー!ヒゲソーリー!違うか!がはは!」
なんの混じり気もない、純粋なハズレだ。
同期がこれでは、気が抜けるというより先に、少しずつ旅人としての感覚がずれていくのが分かった。思っていた方向とは違う種類の人間が、最初から隣にいる。その事実がじわじわ効いてくる。
しばらく言葉が出なかった。出さないというより、出す理由が見当たらなかった。
この旅では、こういう時間が何度も出てくる気がしていた。
マニラからバギオへ。五時間のドライブが始まった。運転席にはタンクトップの太ったフィリピン人が座っている。
助手席のイロジロは、後部座席に座る僕とトミオに言葉をかけるでもなく、猛烈な勢いでノートPCのキーボードを叩き続けている。その打鍵音は、感情を削ぎ落としたメトロノームのように夕方の薄暗い車内に響く。
車窓に映るのは、ボロボロの家屋とコンクリートの死骸、多種多様なゴミ、茶色くて細い犬、そしてそこら中で人生を放棄したかのように眠りこける人々。
「ここって、いわゆるスラムってやつですか?」
僕の震える問いに、イロジロは画面から目を離さず、氷のような声で答えた。
「いえ、比較的きれいなエリアですよ。富裕層も住んでいます」
嘘だろ。僕の目には、街全体が胃液に溶かされている途中に見える。これが綺麗だというのなら、この国の「汚い」の定義はどうなっているのだ。
マニラの街中の喧騒を抜けて高速道路に入ると、風景は同じ顔をしたまま流れ続け、その不気味な反復のなかで時間だけが静かに摩耗し、気づいたときにはもう夜だった。
高速道路の休憩所で出されたのは、アルミホイルに包まれた、魚の死臭のようなものが立ち上る灰色の肉のサンドイッチだった。口を近づけると脳内の生存本能が「食うな」と即座に警報を鳴らす。
僕がそれを前にして、どうにも口をつけられずにいると、イロジロが淡々と言った。
「あっ、食事代としてそれも学費に含まれてるんで、安心してくださいね」
引っかかっているのはそこじゃない。コストパフォーマンスの話ではなく、これはそもそも僕の食道が受け入れていい種類の物質なのかという問題だ。
フィリピン人の運転手が平然としているのは当然だとしても、イロジロやトミオまでが同じ顔をしているのは妙だった。どちらも日本人のはずなのに。トミオに至っては、見せつけるように葉巻へ火をつける。気がつけば三対一。誰に責められているわけでもないのに、そういう配置だけが出来上がっている。不気味な一瞬だった。

トイレに行けば、そこには息くさおじさんの呼気を百倍に濃縮したような悪臭が渦を巻いている。そこには「清潔」という概念の痕跡すらなく、ただ排出だけが堆積していた。僕の指先は、恐怖とも嫌悪ともつかない震えを止めることができなかった。
深夜、霧の濃いバギオの宿舎に辿り着いたとき、僕の精神はすでに炭化していた。特に何か決定的な事件があったわけではない。ただ、初めての外国というだけで、体の内側から静かに削られ続けていたのだ。
真っ暗な部屋に、街灯の光が淡く差し込んでいる。「誰もいない」そう思えた。荷解きもせず、バックパックからバスタオルだけを取り出し、床に身を横たえて目を閉じる。
次の瞬間、ぱちりと電灯がついた。目を開けたとき、眼前にいたのは、キノコのように丸い頭をした韓国人の青年だった。

見た目としてはどこか頼りなく、今にもどこかへ転がっていきそうなのに、そこに乗っている表情だけは妙に落ち着いている。彼はところどころ言葉の継ぎ目がほつれた英語で、それでもこちらの警戒心だけをほどくようなゆっくりした調子で微笑んだ。
彼は同居人らしい。今日、僕と同じようにこのバギオに到着した『同期」でもあるらしい。
「ここ、君のベッド」
そう言って彼が示した場所は、驚くほど無害なベッドだった。衛生面に関してはよく分からないが、少なくとも敵意は感じない。そして部屋のどこかに漂う、懐かしいような石鹸の匂いが、妙に現実感を取り戻させた。
そのとき僕は、トミオと同じ部屋にならなかったという一点において、この旅の中でも最大級の幸運を引き当てたのだと確信した。あの男と同じ部屋で夜を過ごす状況だけは、どう考えても「休む」という行為が成立しない。
その安心感だけで、僕の体は急速に沈んでいった。深い眠りというより、落下に近い形で意識が途切れた。
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ビギナー、国外排出済み
バギオの朝は、鶏のやけに切迫した鳴き声と、どこからともなく漂う異臭、それに煮え切らない排気ガスが混ざり合った、なんとも実存を逆なでするような匂いで始まった。
学校というよりは「廃ホテル」と呼ぶのが妥当なボロ屋へ、僕を含めた短期留学生たちがゾロゾロと吸い込まれていく。そこには、想像していた「意識の高い修練場」の欠片もなかった。
今週の入学生は、僕を含めて七人の迷い子たちだ。

「シンさん、どれくらい英語できるんですか?」
そう訊いてきたのは、頬の膨らんだ「おかめ納豆」のパッケージにそっくりな二十一歳の女子大生だ。僕が「イギリスの音楽を嗜み、その精神性を解する程度です」と謙遜気味に告白するや否や、おかめは「ぷぷぷ、そんなの全然ダメじゃん」と鼻を鳴らした。熟れすぎた柿を見つけたカラスのように「ダメじゃん」と、目を見て言った。言葉の緩衝材というものを知るには彼女はまだ若いのかもしれない。
その隣には、眉毛のない厚い一重瞼、金髪の名前の分からない髪型で、黒に金ラメのラインが入ったジャージを腰の下までずり下げた、いわゆるサギングスタイルの若者がウロウロしていた。地方のドン・キホーテの駐車場に夜な夜な仲間と集まることが唯一の救いといった風貌の、岐阜県出身、通称ドンキ君。親の都合で一時的にフィリピンに住んでいるらしいが、どんな都合でフィリピンに一時的に住まなければならないことになるのか、僕には想像もつかない。
そして、このデジタル全盛期に、バイクのエンジンような分厚い英和辞典を抱えた老眼のトミオ。百カ国を訪れたらしい彼は、行きの車内で何冊ものパスポートを広げて見せてきた。どれも隙間なくスタンプで埋まってしまうほど世界を渡り歩いてきた人間が、いまさらこんな場所で英語をやり直している。その事実だけが、どうにも腑に落ちなかった。
この三人と僕を含めた四人が日本人で、あとの三人は韓国人だった。彼らは自国の苛烈な就職戦線への武装や、欧米留学へのウォーミングアップを目的としてここへ来ている。
対して日本勢の体たらくといったらどうだ。風来坊の僕、暇つぶしのドンキ、人生の最終コーナーを逆走するトミオ。目的は見事にバラバラ、志の低さだけが共通項であった。
オリエンテーションが済むや否や、学力テストという名の公開処刑が始まった。
リーディングは直感で埋め立てたが、リスニングが地獄だった。教壇に鎮座する古きラジカセは、重度の喘息患者のようにガサガサと途切れ、肝心な箇所で二十秒ほど沈黙したかと思えば、突如として「チュクチュク!」というスクラッチ音が爆音で割り込む。
「あの、オールドスタイルへの拘泥を捨てて、PCから音声を流せばいいのではないでしょうか」
僕は喉元まで出かかった正論を、フィリピンの湿った空気に紛れ込ませて飲み込んだ。
ライティングでは「know」の、読まないくせに一番前に居座る「k」の傲慢さに腹を立て、スピーキングでは「Family」というテーマに対し、「親を憎んでおり、条約を締結して以来一言も話していないので語ることはない」と身振り手振りで拒絶した。その結果、ティーチャー・アマンダに呼び出され、「いい大人なんだから親を大切にしなさい!」と異国の地で道徳の再教育を受ける羽目になった。僕は「はい、すんまへん」と、魂の抜けた返事をするしかなかった。
昼から休み、運命の結果発表。
一位はおかめと、アメリカ留学を控えた韓国人・エマ。


「えっへん!」と胸を張るおかめに、「男子たち、情けないわね!」とエマが追い打ちをかける。彼女たちに与えられた称号は「High Intermediate(中上級)」。
眩いばかりのエリートだ。
二位は僕と、無毒なキノコのような顔をした同居人の韓国人・キノコ。

「え、そんな、そんな馬鹿な話があるのか」
キノコは、自分より遥かに知能が低そうだと思っていた僕と同点だったことに、本気で世界が崩壊したような顔をしている。
「ははは。舐めてもらっては困るよキノコくん。僕は中学のとき、英検三級という輝かしい栄誉を手にしているのだよ」
僕が誇らしげに吹聴すると、彼は「エイケン、なんだそれは、マーシャルアーツの類か」と戦慄していた。
我々の称号は「Upper Beginner(上級初心者)」。
まだまだ初心者の延長線上という意味だ。
三位はトミオ、ドンキ君、そしてなぜか声だけ高い韓国人のデブ。
彼らの称号は「Beginner」。これは、アホ、あるいは赤ちゃんとほぼ同義である。

十九歳のドンキ君は「トークはいけるんですけど、書くのが苦手で。カタカナも怪しいんですよぉ」と、義務教育の敗北を露呈していた。
「岐阜の小学校へ戻り、ランドセルを背負い直すべきだ」
僕のアドバイスに対し、「ギリ名古屋っすよぉ」と、どうでもいい地理的プライドを覗かせていた。

ハイトーンボイスのデブは自己紹介で「あーん、あ、あ、ミー、イズ、コリアン」と言い、「I am」という入口の段差でつまずいていた。いくらなんでも、そこは越えてきているものだと思っていた。
そしてトミオにいたっては、もはや別種だった。文字通り話にならない。
フィリピン人の先生が「How long…どれくらいフィリピンにいる予定?」と優しく英語で問うと、トミオは満面の笑みで答えた。
「マグロ? うん、やっぱ寿司だよな」
英語の質問に日本語で答える。
噛み合わない歯車が火花を散らしている。
「ごめん、聞き取れなかった。なんて言ったの。ねぇ先生、な・ん・て・いっ・た・の」と、詰め寄るトミオ。
「ゆっくり言っても意味ねぇよジジイ」
僕は冷ややかに制したが、彼はどこ吹く風で、がははと笑う。

僕は数日後にひとつ上のクラスへ移ることになる。ビギナークラスに留まれば、トミオの「日本語による武力介入」で授業が止まるからだ。それなりの金を払っている。トミオという名の底なし沼に時間を沈めているわけにはいかない。
僕は一応の向学心を胸に、フィリピンの泥臭い風の中でペンを握り直した。
とはいえ、英語に関しては「Upper Beginner」などという中途半端な名前のついた初心者でしかない。旅人としても同じで、日本国外へ排出されたばかりの身。どこへ行っても勝手がわからず、その都度立ち止まり、小さく失敗しながら覚えていくしかない。
結局のところ、僕は英語を学びに来たのか、それとも別の何かに巻き込まれに来たのか、その区別もつかないままだった。
このときの僕はまだあまりにもまっすぐで、そのまっすぐさが、これから少しずつ形を崩していくことも知らなかった。