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ハリガネとゲジゲジ

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ベンメリアの廃墟を共にした八人の中に、一際異彩を放つ剛毛の男がいた。
その名はハリガネ。文字通り、頭部から無数の針金が生え揃ったような、物理法則を拒絶する髪質の男である。大して親しくもない彼から、「シェムリアップに温泉があるんですよ」と誘いを受けた。
深夜のバンコク行きのバスまで、僕の予定表は空欄だ。水に濡れた彼の「針金」がどう変貌を遂げるのか、その一点のみに知的好奇心を抱き、僕は同行を決めた。

午後六時。待ち合わせ場所に現れたハリガネは、年季の入ったママチャリに跨っていた。
「いやあ、暑いっすね。じゃあ行きましょう。僕、後ろに乗るんで、チャリ漕いでもらえますか」
「なんだって」
聞き間違いかと思った。誘ったのは彼であり、より強靭な筋肉を有しているのも彼だ。しかし、彼は臆面もなく繰り返す。
「僕、人を乗せて漕げないんですよ。 さあ、行きましょう」
気がつけば、僕は異国の地で、よく知らない男を後ろに乗せてママチャリを激漕ぎしていた。意外にも自分が二人乗りの操縦に長けているという、人生において全く不要な才能を開花させながら。

ハードロックカフェ付近にあるという温泉。その待ち時間、彼は悪びれずに宣った。
「温泉でさっぱりした後のチャリ、最高っすよ」
引っかかる。さっぱりした後に、再び僕を動力源にして自分だけ風を受けるつもりなのだ。
この男の心は、思いやりや気配りといった繊細な回路が組み込まれぬまま出荷された、未完成の「ハリガネ細工」なのだと確信した。
温泉自体は、驚くほど普通の大衆浴場であった。特筆すべきは、脱衣所で無防備に股を全開にするハリガネの野性味くらいなものだ。
案の定、湯上がりに再び汗だくになってチャリを漕がされ、僕のカンボジア最終日は、ただただ肉体労働として幕を閉じたのである。

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往路の地獄の移動を反省した僕は、バンコクへの帰路に大型寝台バスを手配した。
あの「ぼったくり地獄」が嘘のような快適さであった。清潔なシーツ、程よく効いた冷房。
ようやく人権を取り戻した心地で横たわった僕の視界に、一対の「動くゲジゲジ」が侵入してきた。
隣の席に陣取ったのは、二十一歳の日本人バックパッカー、ゲジオ。その眉毛の密度と、魚の死骸が腐敗したような口臭を嗅いだ瞬間、僕はマレーシアで出会ったあの忌まわしきゲジマユの悪夢を再上映せざるを得なかった。

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「あの、シンさんでしたっけ。一言いいっすか」
横たわる僕のパーソナルスペースを、彼の低い声が土足で踏み荒らす。
「バンコクに到着したら、どうするんですか」
「カオサンで、何泊かしますが」
「ちょっ、ププッ、クスクス」
ゲジオは突然、噴き出した。まるで落とし穴を掘っている最中のような、無礼極まる笑い方だ。
「なにを笑っている」
「いやあ、すみません。恥ずかしい人だなあと思って。シンさん、カオサン↓じゃなくて、カオサン↑ですよ。語尾を上げないと。現地でそんな発音してたら、失笑されちゃいますよ。うふふふ」
どうでもいい。「自称ミニマリスト」の家のリモコンの定位置くらいどうでもいい。
発音の重要度など、このしみったれた財布の底にへばりついた小銭みたいな現実に比べれば、羽毛よりも軽い。しかし、ゲジオの自分探しは止まらない。
「僕のこのバックパック、アークテリクスっていって、防水が完璧で。このキーンのサンダルは」
「へえ。じゃあ、もう寝かせてくれ」
「ていうかですよ、シンさん。なんでそんな安っぽいビーサンなんですか。 あなた旅を舐めてませんか。見た感じ、腰巻きのセーフティポーチもしてないみたいですけど、それ、一瞬で金盗まれますよ。修羅ですよ、ここは。旅、舐めすぎです」
彼は、ネットで拾い集めたバックパッカーの正解という名のゴミ屑を、さも真理であるかのように僕の耳元で囀り続ける。
「えぇ、ナット知らないんですか。日本人が集まる宿ですよ、常識ですよ。いや、ちょっと信じらんないですね。危なっかしい人だ。一緒に行ってあげましょうか」
「静かにしたまえ」
眉毛がもじゃもじゃの男はどうしてこうなのか。彼は地球の歩き方にピンクの付箋をこれでもかと貼り付け、シェムリアップ空港から「冒険」を開始したばかりの、培養された大学生に過ぎない。この国で汚いトイレを何回か見ただけで、彼は自分を東南アジアの覇者であると錯覚しているのだ。
「カンボジア、どのくらいいたんですか」
「四日間だね」
「ええぇ、足りない足りない。そんな人いるんだ。じゃあ僕のほうが先輩ですね。僕は一週間いましたから。陸路での国境越えも初めてなんじゃないですか。僕が手取り足取り教えてあげますよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内で小さな「悪魔」が微笑んだ。
国境の検問所に到着した瞬間、僕は「教えてあげますよ」と鼻息を荒くするゲジオを置き去りにし、バスの背後に音もなく身を隠した。
「教えてもらう」立場の僕が消えたことで、彼の先輩という仮面は一瞬にして剥がれ落ち、そこにはただ、初めての国境で半泣きになりながら右往左往する、哀れな迷子が取り残された。

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手続きを終え、バスに戻った僕の前に、ゲジオがようやく姿を現した。その眉毛は不安でハの字に歪み、覇気がない。
「もぉ、どこ行ってたんですか。心配しましたよ」
「なぜ心配したんだ」
「いや、だって、初めての国境で不安だって言ってたから」
「初めてじゃないし、不安なのはあんただろ」
「だって、四日目だって」
「僕はカンボジアに四日いただけだ。他の国も行ったし、そもそも同じ国境を渡ってバンコクから来たんだ。人の話を聞かずにごちゃごちゃうるさいから、もう関わらないでくれ」
ゲジオは絶句した。オシャレなバックパックも、機能的なサンダルも、今の彼の情けない沈黙を救ってはくれない。
「えっ、一緒にナットに泊まりましょうよ」
「あんたみたいなのが溜まっている宿なら、泊まりたくない」
寝台バスの快適な揺れの中で、ゲジオの弱々しい嗚咽が漏れた。

寝台バスの、カビと体臭が混ざり合った闇の中で、内側に溜まっていたものが、音もなく爆発した。あとに残ったのは、耳鳴りのような、救いようのない、みっともない静寂だけだ。
我ながら、反吐が出るほどに度し難い小悪党である。あの手の初々しさなど、本来なら受け流してしまえばいいだけの話だ。
それなのに僕は、わざわざ通ぶった顔をして、自分でも大して変わらないくせに、その差をことさらに広げるような真似をした。
どちらが場数を踏んでいるか、どちらが真実を知っているか。
一銭の価値もない、その安っぽい序列の梯子を一段でも登らねば、己の立ち位置すら見失う。そんな貧相なアイデンティティを死守するために、僕は「旅人」という名の、穴の空いた化けの皮を必死で繋ぎ止めている。そうでもしていなければ、僕という空虚な存在の輪郭は、熱風に吹かれて跡形もなく霧散してしまうからだ。
隣から漏れる、ゲジオの鼻をすする粘りついた音。
それを子守唄代わりに聞きながら、僕は自分が、その醜悪極まりない旅人の力学の中に、パズルのピースとして組み込まれていることを、認めないわけにはいかなかった。
逃げ場のない鉄の箱の中で、僕の自意識だけが、腐った果実のように音もなく、じくじくと腐敗していった。

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昼頃、カオサン近郊のロータリーに到着した。
バスを降りるなり、聞き覚えのある毒を含んだ声が響く。
「あら、戻ってきたんだ。暇なら飲むか」
スミコ。バンコク到着初日からだらだらと停滞し続けている、この街で最も口の悪い日本人の女だ。
僕の後ろでオドオドしているゲジオを一瞥し、彼女は容赦なく言い放った。
「うわ、シン。キモいの拾ってきたな」
「あ、あう、ゲジゲジ」
ゲジオは、もはや言葉を紡ぐこともできず、壊れた玩具のように去っていった。
すまぬゲジオ。これがバンコクの洗礼であり、リアルなのだ。

夜。スミコとカオサンロードを歩いていると、新しい友人と共にパッタイの写真を撮るゲジオの姿が見えた。あんな無様な別れ方をした後でも、彼は彼なりにバックパッカーを謳歌しているらしい。少しだけ安心した。

生ゴミと小便と大麻の甘ったるい死臭が漂うこの猥雑な大気の中へ、自分がようやく逆流してきたことを実感した。
「カンボジアとか、ゴミ溜めみたいな国だろ」
シンハーの大瓶の首を掴み、ラッパで豪快に煽るスミコの、一切の躊躇がない罵倒。その清々しい毒気に当てられながら、僕は胸の内で静かに頷いた。

執拗な詐取と、どこまでも不潔な空気。だが、喉元を過ぎればそれらすべてが、価値もない滑稽な記憶の断片として脳内で変換されていく。
ただの観光を済ませてきただけだというのに、今の僕を支配しているのは、重労働の末に日給を全額リエルで渡された時のような、救いようのない、ずっしりとした疲労感であった。
聖なる石積みを網膜に焼き付けたはずなのに、結局、僕の脳に刻まれたのは、あの下卑た笑顔のドライバーと、砂埃に塗れた卑屈な自意識ばかりだ。
僕のカンボジアは、バンコクのドブ川へと流し込まれて消えた。

死んだ人間、生きてる人間

トムヤム屋台の片隅。僕の隣には、鋭利な剃刀のような緊張感を漂わせる女がいた。
「行きたい所があるから、ついてきて」
と、スミコは言う。

僕がかつて、あの粘着質なゲジマユカナディアンの呪縛から逃れ、「ハロー・ホステル」に転がり込んだあの日。和風極まりない僕の顔と出立ちを見るなり、彼女は「チッ」と、鼓膜に突き刺さるような音を立てて舌打ちをした。その乾いた拒絶の響きを、僕は今も、旅の洗礼として鮮明に記憶している。
彼女の思想は、過激なまでに純粋であり、同時に破壊的だ。
「旅人ぶっている日本人を見ると反吐が出る。旅人っていうのなら南米のジャングルでサバイバルしてこい。サハラ砂漠をスケボーで渡れ。マウンテンゴリラとタイマンを張ってから『旅』を語れ。タイに来て、ネットで予約した宿に泊まって、日焼け止めを塗りたくって、衛生面に怯えながら飯を食う。それが『旅』なのか。私にはわからない」
そう吐き捨てるスミコは、紛れもなく偽善を焼き尽くす劇薬だった。しかし、その火を振り回している本人が、旅行者でごった返すカオサンに、平然と居座っている。その矛盾こそが、彼女なりの「旅」なのだとしたら、まあ、それはそれで筋は通っているのかもしれない。

これからの予定がはっきりしていない僕は、スミコに誘われるまま、カオサンから西へだらだらと歩いた。行きたい場所があるらしい。
「シン、あんたもこれからインドに行くのか。はあ、やっぱりそうか。気持ち悪い。価値観が変わる『自分探し』、せいぜい頑張ってきてよ」
毒を吐き散らす彼女の言葉に、僕の旅人としての小さな誇りは、今にも消え入る蝋燭の灯火のように細くなっていた。このままでは彼女の毒に溶かされてしまう。そう思った僕は、ある「神」を召喚することに決めた。
ペナンで僕に「知ること」の呪文を授けた群馬の神ことグンマさんが、いつの間にかバンコクに来ていたのだ。

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スミコが提示した目的地で神と合流した。
そこは、シリラート医学博物館。通称、死体博物館。
グンマさんは、この不気味な誘いに狂喜乱舞した。
「誘ってくれてありがとう。合法的に、かつ静謐に死体を見ることができるなんて、なんと素晴らしいことか」
それがどう素晴らしいのか、彼は首にかけた巨大な数珠を揺らしながら、独自の理論と哲学を延々と展開する。
すると、信じがたい異変が起きた。あの悪童そのものだったスミコが、「やだぁ、うふふふ」と、鈴を転がすような、あろうことか女らしい反応を見せ始めたのだ。
毒婦が女の顔になった途端、彼女は妙に可愛く見えてきた。
「もしや、これは神に一目惚れか」
改めてグンマさんを眺める。僕の認識では神と変態の紙一重であったが、まじまじと見れば、服を着た彼は驚くほどハンサムであり、その眼差しには深淵を覗き込むような知性が宿っていた。

館内には、縦割りにされた骸骨、ホルマリンに浸かった赤子、剥ぎ取られた顔面の皮膚、剥き出しの内臓標本。あらゆる人体のパーツが、逃げ場のない密度で陳列されていた。
グンマさんは熱心に「ここは撮っていいのか」「これはどういう状態だ」と職員へ質問し、一つ一つを慈しむように、そして丁寧に見て回る。
一方で、企画者であるはずのスミコは、もはや死体(過去)など見ていなかった。彼女の視線は、熱心に標本を観察するグンマさん(現在)の横顔に釘付けになっていた。
「スミコ、それ、生きてるよ」

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博物館を出た後、僕たちは言葉を交わした。
グンマさんは相変わらず「旅」という言葉を多用する。かつてなら鼻で笑っていたはずのスミコが、今や甘えたような、どこか縋るような声で問いかけた。
「ねえグンマさん。それって本当に『旅』なの。ただの旅行じゃなくてさ」
グンマさんは、夕闇に沈むバンコクの空を仰ぎ、人間の「内側と外側」についての説法を始めた。この手の話は、たいてい長い。
「いいかい、スミコ。旅にはどちらの側面もある。お前が日本人バックパッカーを嫌っている理由は知らないが、彼らには彼らなりの『外側の旅』がある。そして今、お前が『それは旅か旅行か』と問う。その問いを抱き、正解を探そうとすること自体が、お前が内側で激しい旅を続けている証拠なんだよ」
スミコは納得がいかない様子だ。自分の惚れた男が、ステレオタイプのバックパッカーを肯定していることが、彼女の自意識を揺さぶる。
「ミーハーを嫌い、雰囲気だけで満足するポエム野郎を嫌う。それは普通のことだ。音楽や映画のような趣味の世界でも、ダサい奴を相手にしないのと同じ『外側』の話だ。だが旅は違う。旅は、自分の中で『正解』が絶対にわからないように設計されている。だから、みんな不安になって他人を否定したくなるんだ」
僕は猛烈な眠気に襲われていた。彼らの高次元な対話は、僕のキャパシティを優に超えている。しかし、スミコは真剣に聞いている。
「それでだ。お前はどうやら俺に惚れてるみたいだけど」
グンマさんの無慈悲なまでの直球。スミコは顔を真っ赤にして俯いた。
さっきまで椅子にあぐらをかいて煙草を燻らせ、世界を呪っていたあの毒婦の姿はどこにもない。今や彼女は、弱みを隠すように丸まったアルマジロであった。
「正解が分からなくて、心が激しく動く。それでも気になるから見に行く、聞いてみる。それが旅だとすればだ。今、このバンコクで誰よりも内側を旅して回っているのは、スミコ、お前なんだよ」
やはり、神だ。この男。
グンマさんは、スミコの「他人への攻撃性」を、自分自身への問い、内側の旅へと鮮やかに変換してしまった。武装を解除されたスミコは、もはやただの、震える肩を持った一人の乙女であった。
彼女はポツリと、「グンマさん、全然意味わかんない」と呟いた。
「その意味のわからなさこそが、旅の到達点さ」
そう言って神は「きまった」とでも言うような満足げな笑みを浮かべた。
解決しない問い、答えの出ない感情、それでも置いていくしかない日常。
僕は、この混沌とした空気を誰かが笑い飛ばしてくれることを願い、ふと、行方知れずのヤブレが、この場にひょっこり現れてくれないかと思案した。
解決できないことは、しょうがない。
けれど、願うくらいは許されてもいいはずだ。

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明日行こう

神と乙女はその夜に二人してカオサンから姿を消した。ゲジオとも一度会ったが、彼もまた漂流していった。
数日が過ぎるころには、近所の店のおばちゃん以外、カオサンに知り合いはいなくなっていた。同じ部屋のニュージーランド人は、ドミトリーで平然と自慰行為をする時点で知り合いから除外している。

ネットの端切れを拾おうと飛び込んだカフェで、一通の通知を確認した。
「今、カオサンに着いた。前と同じ宿にいる」
送り主はサラガミ。いわば僕の旅における業の相棒である。
僕たちはシェムリアップで一度別れていた。
バーガーキングの前で再会した彼は、どこか憑き物が落ちたような、不気味なほど清々しい面構えをしていた。
それもそのはず、カンボジアで僕たちを翻弄し続けた「バックパッカーという概念に、敬意を払わない彼女」パツコは、シェムリアップから日本へと放流されたのである。
久方ぶりに相まみえた彼が、開口一番に放った言葉は、僕の脊髄を凍らせるに十分な破壊力を秘めていた。
「ベンメリアの時、すごい頭をした男がいたの覚えてるかな。そいつに温泉へ誘われて。行ってみたらチャリ漕がされてさ。温泉の意味がないくらい汗だくになったんだけど」
あいつだ。間違いなく。あのハリガネの魔の手は、僕が去った後のカンボジアで、着実に相棒の生命力を削り取っていたようだ。

「インドの話をしよう」
サラガミは本題に入った。
僕らはこれまでの道中で、パツコが帰国すると二人でインドに行こうか、とぼんやり考えていたのだ。

「ああ。インドだね。正直、かなり肝を冷やしているけれど」
「なに言ってるんだ。大丈夫だよ」
僕たちは、その場の刹那的な昂ぶりだけで決めた。
僕が冗談半分で言って、サラガミがそれを笑わなかった。
「明日、インドへ行こう」

インド入国にはビザが不可欠である。大使館申請は悠久の時を要し、電子申請はもはや手遅れ。僕たちに残された選択肢は、現地到着後に申請を試みる「アライバル・ビザ」のみであった。書類に一点の瑕疵あれば即座に強制送還という、ほとんど博打だった。だが、僕たちは迷うことなく、翌日のコルカタ行きの航空券を、破滅へと向かう確信と共に叩き落とした。

ルート策定は混迷を極めた。
バラナシの腐臭混じりの聖性、アーグラーの白亜の幻影、デリーの狂気的な喧騒。行きたい場所は無数に点在するが、アライバル・ビザの寿命はわずか三十日。
僕は、出国前の成田空港で、何かに憑かれたように購入した「地球の歩き方・インド編」を広げた。その見開きの僅かな隙間に、僕の眼球を吸い寄せて離さない地名があった。そこだけ不思議と静かだった。
巨大な岩石が重力に抗うように転がり、地球上の光景とは思えぬ荒涼たる神秘を湛えた村、ハンピ。
「そこ、行く必要あるのか」と怪訝な表情を浮かべるサラガミを、僕は執拗なまでの情熱でねじ伏せ、ハンピを旅程の最終防衛ラインへと組み込んだ。
コルカタから入り、バラナシ、アーグラー、ムンバイ、ゴア、そしてハンピを巡って、再びコルカタへ戻る。そんな無謀な円を、僕たちは頭の中に描いていた。
この一ヶ月をやりきれば、僕の蓄えはきれいに消える。旅の終わりとしては、ずいぶんとわかりやすい。

翌日。カオサンを退去し、タイでの最後の糧食を胃袋に収める。
「タイ、どうだった」
「バンコクとアユタヤしか知らないから、また来ないとな」
会話は弾まない。語るべき感傷よりも、これから向かう場所の輪郭がうまく掴めないことのほうが、僕たちの口を重くしていた。

サラガミは、先ほどからバックパックのジッパーを、親の仇を討つような手つきで何度も往復させている。
ジィ、と開けては、中にある歯ブラシと目が合い、ハッとしてジィ、と閉める。次の瞬間には、今閉めたばかりの事実に疑義を抱いたのか、再びジィ、と開けてはパスポートの生存を確認し、安堵の溜息と共にジィ、と閉める。
もはやパッキングではなく、自らの不安をバックパックの中へ閉じ込める、神聖な儀式にさえ見えた。その儀式に効果なんてないのに。

僕の脳裏には、シンガポールで遭遇したあの「インド人という現象」が、不吉な残像として明滅していた。
親切で、自信に満ち溢れ、迷いなく僕をムスリム墓地観光へと誘ったあの二人。善意をそのまま運用しながら、結果を盛大に間違えるあの不条理。
「ハロー」と言っただけで警官に囲まれ、オレオからパンツに至るまで荷物を白日の下に曝け出されたあの屈辱。
あれが「点」ではなく「面」として存在する国。シンガポールの清潔な街角ですらあれほど翻弄されたのだから、本場であるインドの土を踏めば、自我は一瞬で吹き飛び、カレーの香辛料の一部へと成り下がるのではないか。

フィリピン、台湾、シンガポール、マレーシア、タイ、カンボジア。
六カ国を回ったが、身についたのは赤子程度の英語と、「アジアでも長袖が必要」という知識くらいだ。混沌を駆け抜けるには、あまりにも物足りない。
三十日後、日本に帰国する僕の肉体は、果たして同一人物として定義できる状態を保っているのだろうか。

緊張は極限に達し、僕たちはもはや顔を見合わせることすら億劫になっていた。サラガミは無言のまま、やりもしないゴルフのスイングを繰り返している。
僕は、これから踏み込む奈落の底が少しでも柔らかい土であることを願いながら、バンコクで買ったパーカーの紐を弄んでいた。