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渋い男とマスタードホテル

二〇一三年九月三日、午後十一時。
約二時間の飛行を経て、僕は台北からクラーク国際空港へと舞い戻った。マニラ発シンガポール行きの航空券という、目下僕が保持する唯一の「未来への切符」を死守せんがための帰還だった。
列を埋め尽くすのはフィリピンの同胞たち。外国人は僕の他、白人のバックパッカーが一名のみという、まるで異物のように浮いていた。
入国審査を終え、僕は台湾で学び、練り上げた壮大な計画「空港のベンチで優雅に夜を明かす」という策を実行に移そうとした。しかし、そこで僕は致命的な欠陥に直面したのである。
「電源がない」
ナンシーとの断捨離により、僕は予備のバッテリーという文明の利器をすべて遺棄していた。現代の放浪者にとって、電源の喪失は生命維持装置の停止に等しい。
僕はコンセントという聖杯を求めて空港内を徘徊したが、そこで耳にしたのは「ガタン、ガタン」という、終末を告げる鉄格子の音だった。照明が奥から順に、意志を持った怪物のように消えていく。空調は停止し、大気はねっとりと嫌な湿度を帯び始めた。僕が乗ってきた便を最後に、この日のクラーク国際空港は閉店してしまったのだ。
警備員に家畜のごとく追い出された先には、一筋の光も差さぬ、真の暗黒が横たわっていた。
「これ、ヤバいかもしれない」
周囲のフィリピン人たちは、闇に慣れた獣の如く去っていく。残されたのは僕と、遠くで吠える野犬の群れ、そして「ベリーチープよ」と囁く、正体不明のバイタク野郎どもだけであった。

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一分後の生存戦略すら持たない僕は、流れに身を任せるまま、ぎゅうぎゅう詰めの乗り合いバスに放り込まれた。行き先も分からぬまま、漆黒の荒野を疾走する。窓の外には、数メートル先も見えない闇の中で、乗客たちが平然と下車していく不可思議な光景が広がっていた。
やがて、闇の向こうに黄金に輝く「蜂の紋章」が見えた。

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フィリピンの国民的ファストフード、ジョリビーだ。バンはどこへ向かうのか、まったくわからない。着いた先にオアシスでもあればまだしも、魑魅魍魎の阿鼻叫喚地獄かもしれない。だったら、そんな背水の賭けに出るよりも、慣れ親しんだチェーンの灯りに任せておいたほうがまだマシじゃないか。バギオでの平穏な日々を想起させるその看板に、僕は藁をも掴む思いで飛び降りた。
間違っていない、ここで降りたことはきっと間違っていない。
「僕はね、ここにはよく来るんですよ」という、誰に向けたとも知れぬ虚勢の笑みを浮かべて入店しようとしたが、そこにあったのは、テーブルの上に逆さに並べられた椅子と、モップを振り回す店員の冷ややかな拒絶であった。
「閉めたから出て行け、タコ」
二度目の追放。決して僕はタコではないが、軟体ではと言われると否定もできない。
外に出れば、バイタクの男たちが卑屈な笑みを浮かべて僕を包囲している。絶体絶命とまではいかないが、もはや彼らを頼る他ないという窮地。
そこに現れたのは煙草を燻らす長身の男だった。バイタク連中の放つ脂ぎった殺気とは無縁の、どこか浮世離れした渋い空気を纏った男。

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「やぁ、こんな時間に何してんだボーイ?」
「ゲキシブじゃないですか」
男は二メートルほどの距離を保ち、僕の窮状を静かに聞いた。
「そうか。今着いたのか。空港って閉まるんだな」
彼の落ち着き払った低音に、僕の脊髄を支配していたパニックが緩んでいく。男は自称無職であったが、その佇まいは、どの富豪よりも威厳に満ちていた。
「バイタクには気をつけろ。ここはアンヘレス。下手に乗れば風俗街の高い連れ込み宿に放り込まれるぞ」
ゲキシブはボロボロの携帯電話で何やら話しながら、役目だけは果たしたとでもいうように、あとはあっさり消えてしまった。

世界でいちばん日本人が殺されている国はフィリピンだ、という、誰のものとも知れぬ古びた囁きが、今さらになって頭の奥で鳴り出す。本当かどうかは知らないし、たぶん大して当てにもならない話だろう。それでも僕が日本人である以上、その「たぶん」はやけに頼りない。目の前の街は拍子抜けするほど普通だが、普通というのは、油断した者から順に処理していく装置の別名かもしれない。歩いた先に何があるのか見当もつかず、僕はその場にしゃがみ込み、ボコボコに割れたアスファルトを眺めていた。

そこへ、なぜか戻ってきたゲキシブは、無職の所有物とは思えぬほど立派なネイキッドバイクの後部座席を、当然のように顎で示した。
「四百で泊まれるそうだ、来るか」
頼るしかない、というより、ここで頼らぬという選択肢のほうが、よほど不自然に思えた。
「ヘルメットはいい、持ってねえからな」
その潔い無法ぶりに、僕は自分の命を、いったんこの男に預けてみることにした。

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バイクは一度マクドナルドに寄ったが、彼は僕の奢りを頑なに拒絶した。そのまま再び走り出し、やがて闇の深い一角で、ふいに停止した。

生ゴミの腐臭が漂い、地面は正体不明の液体でぬめっている。通路の壁には、震える筆跡で「Hotel」とだけ書かれており、その実体は、お世辞にも宿とは呼び難いほったて小屋の寄せ集めだった。
ゲキシブはひとりで中へ入り、いかにも機嫌の悪そうな顔つきをした老婆と現地語でやり取りしている様子が、外からでもはっきり見えた。
「三百ペソだってよ、ボロくて汚ねえが、文句はあるまい」
戻ってきたゲキシブは、何でもないことのようにそう言った。信用していいのか分からないが、助かっているのも確かで、その居心地の悪いありがたさを、僕はとりあえず受け取ることにした。
「安い、安すぎます」
警戒と感謝が互いの邪魔をしあう中で、僕はとりあえず「OK」と言った。こちらを一瞥もしない不機嫌な老婆から鍵を受け取り、僕はゲキシブに百ペソのチップを差し出した。
「四百と聞いていたから、その差額だ、受け取ってほしい」

男は一度断ったが、困惑するように、結局それを受け取った。
「もらったほうがクールな気がするよ。じゃあなボーイ。フィリピンを楽しんでくれ。シェイシェイ」

彼は僕を台湾人だと思い込んだまま、闇の中へ消えていった。訂正しようと思えばできたが、その必要も、義務も、あるいは意味も、特に見当たらなかった。
人は案外、間違った前提のままでも平気で別れていけるものらしい。流れに身を任せるとは、正しさを放置することなのかもしれない。

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一人残された部屋に入り、僕は再び絶句した。
鍵はかからず、ベッドのマットには、粒マスタードを数年放置したような、酸味の効いた異臭が染み付いている。ピンク色の壁紙は皮膚病のように剥がれ、トイレの穴からは外の景色が覗いていた。
「いいだろう。マスタードの香りに包まれて寝てやろうじゃないか」
僕は笑うしかなかった。バックパックの奥底に眠っていた自転車用のチェーンロックをドアノブとベッドのフレームに巻き付け、最低限の防犯を構築する。
シャワーヘッドから垂れる、山の湧き水のごとき細い水流に打たれながら、僕は自問した。僕はなぜ、わざわざこの泥濘に戻ってきたのか。
しかし、ゲキシブに救われたこの夜の記憶は、「旅の重み」とでも呼んでおくしかない何かとして、僕の中に残る。残らないかもしれないが、いまは残っていることにする。
僕はマスタードのような臭いの中に身を沈め、ベタつく夜に意識を預けた。預けたというより、置きっぱなしにしていきたい気持ちだった。
明日も日本人でいられるのか、それとも、ここに充満するこの臭気に、ほんのわずか加担しているだけのタンパク質の塊なのか、そのへんは朝になれば多少はっきりするかもしれないし、しないかもしれない。

エンジェル

Angeles-天使たち、フィリピンではこれをアンヘレスと呼ぶらしいが、その聖なる名とは裏腹に、この街は僕を執拗に、かつ卑俗に痛めつけた。何もかもが噛み合わない時、人は微細な不運の集積によって、精神の均衡を容易に崩壊させる。
「落ち着け、大したことじゃない。宿を探して、寝る。それだけだ」
僕は己に言い聞かせたが、その声は空虚にアンヘレスの熱気に吸い込まれていったのである。

九月四日、午前十一時。蚊の羽音で目が覚めた。羽音というより、耳元で何かが薄くこすれている感じで、あまり気分のいいものではない。
僕は真っ先に窓とドアを開け放ち、部屋に溜まりきった異臭を外へ追い出そうとした。追い出したつもりだったが、どこまでが外でどこまでが部屋なのか、よくわからない。視界に入ったのは、生い茂る椰子の木と、赤やピンクの花々である。いかにも南国らしい光景だが、その足元には、いまだかつて乾いたことがないのではないかと思われる濡れた土の駐車場と、生活ゴミが遠慮なく散乱していた。
そこへ、路地裏の中華料理屋の油を含んだ排気のような風が流れ込んできて、さっきまでのマスタード臭と、どちらが主導権を握るのか、しばらく揉めている様子だった。

六日後、九月十日にはマニラからシンガポールへ行くことになっている。それまでの六日間を、このフィリピンで過ごさなければならない。
そう考えた瞬間、目覚めたばかりの頭が、また少し眠りに戻ろうとした。考えること自体が、あまりよくない行為のように思えたからである。

昨夜の「マスタードホテル」は、Wi-Fiはおろか、コンセントすら機能しない、文明に対するささやかな反抗のような場所だった。
「迷いなくチェックアウトだな。エアコンとWi-Fiのあるまともな宿を見つけ、コーラを啜りながら未来を画策するのだ」
そう決めた。この程度の希望なら、まだ現実の許容範囲に収まっているはずだった。
だが、その判断が、結果的には地獄の蓋を静かに持ち上げることになる。

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「三百ペソ追加だ。ここは六百だ、本当は」
スマホを弄りながら老婆が宣った。昨夜、ゲキシブを通じて支払ったはずの料金を、彼女は平然と二重請求してきたのだ。
「馬鹿からむしり取れたらラッキー」というその腐った根性に、僕の血管は朝から沸騰した。もはや一刻もこの淀んだ空気に触れたくない。僕は、結局機能しなかった形だけのルームキーを叩きつけ、ゴミの散乱する住宅街へと遁走した。

壁面に大々的に躍る「800 Pesos」の文字。そのフォントの力強さは、砂漠で見つけたオアシスの看板のようであり、僕はほとんど反射的にその聖域へと足を踏み入れた。
「一晩、頼む、八百で」
フロントに鎮座する男に対し、僕は旅慣れた放浪者を装い、短く声を出す。しかし、返ってきた言葉は、僕の鼓膜を物理的に破壊せんばかりの衝撃だった。
「三千五百ペソだ」
日本円にして約七千七百円。その瞬間、僕の脳内にある計算機が火を吹いて沈黙した。三千五百ペソあれば、フィリピンでは王族のような暮らしができる。日本ならビジネスホテルで、清潔なシーツと無料の炊き込みご飯にありつける金額である。
「いや、待ってくれ。ブラザー、落ち着いてくれ」
僕は首を横に振り、頸椎を損傷せんばかりの勢いで拒絶した。ぼったくりにも作法というものがあるはずだ。これはもはや交渉ではなく、「一か八か、いけたらラッキー」という、先ほどの老婆と同じ思考ではないか。あまりに稚拙なふっかけ方に、怒りを通り越してプスリと屁が出る。
「外に八百と書いてあっただろう。あの数字は飾りか。それとも僕の視力が熱帯の湿気で狂ったのか」
僕の切実な問いかけに対し、ホテルの男は一瞬だけ「しまった」という顔を見せたが、次の瞬間には獲物を逃すまいとする強欲な商人の顔に戻った。そして、信じられない言葉を吐き出したのである。
「わかった。じゃあ二千でどうだ。グッドプライスだろう」
一気に千五百ペソ、率にして四割強のディスカウントである。もはや交渉ではなく、価格そのものが崩壊している。
この驚異的な値引きは、顧客へのサービス精神などではない。最初の言い値がとんでもないデタラメであったという事実を、自ら高らかに宣言したに等しい。
「さいなら」
僕はそのグッドプライスという名の毒饅頭を丁重に、かつ光の速さで突き返した。千五百ペソもの良心を一瞬でかなぐり捨てるような男が管理する部屋に、安眠など存在するはずがない。僕は再び、歩き出した。
少なくとも、あの部屋よりは、そこにいた黒い野犬のほうがまだ誠実に思えた。

彷徨える僕の前に、妙に輪郭のはっきりした存在が現れた。敵、あるいは象徴とでもいうべきか、とにかく無視できない種類のやつである。

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LAのロゴが入ったニュー・エラのキャップから金髪をはみ出させ、ナイキの白い靴を履き、スケボーに片足を乗せた、ぶくぶくに太った少年だった。
彼はiPhoneをポケットにしまうと、手を突っ込んだまま、ガムをぬちゃぬちゃと噛みながら言った。
「ヘイヨォ、金をくれ、飢えている」
僕は、何も言えなかった。というより、どこから何を言えばいいのかがわからなかった。
ガリガリの汚いロン毛で、テロテロのTシャツを着た僕に向かって、明らかに栄養の行き届いた少年が、施しを要求している。状況の整理が追いつかない。
彼は練習済みらしい動きで腹をさすってみせたが、その腹はパンパンに膨れていた。
アンヘレスの歪みをそのまま蓄えた貯蔵庫のように見える。
おろしたてのナイキと、ニュー・エラのキャップに貼られた黄金色のステッカーが、やけに具体的に目に入る。

日本人は金を持っている、という話をどこかで聞いたのだろう。あるいは、そういうことになっているのだろう。
ここで金を出す係として認識されているのかも知れない。しかし僕は、その役を引き受けることなどできるわけがない。
「貧乏バックパッカーを舐めるな。情けを乞うならその脂肪を少し削ってから来い。あと、裸足で来い」
そういう言葉が頭には浮かんだ。浮かんだが、外には出なかった。出すだけの筋が通っていない気がしたからである。いや、筋が通っていないのはどちらなのか、そのへんも含めて、どうにも曖昧だった。
僕は何も言わず、その場を離れた。
アンヘレスという場所に対する嫌悪感というより、この街で自分が何者として扱われているのか、その曖昧さのほうに、うまく馴染めなかった。

逃げ込んだインターネットカフェにはインターネットがなく、長テーブルの並んだ暗い教室のような場所だった。僕は一時間、その一角に座り、甘ったるいコーヒーを飲みながら端末を充電した。隣でソリティアに興じる少年の横顔には、ネットの繋がらない箱をPCと呼び続けることへの、狂気じみた誠実さが宿っていた。

スケベ歓楽街「ウォーキングストリート」なる場所にも顔を出してみたが、ホテルの値段がまずおかしい。ここがフィリピンであることを疑う水準だ。一泊くらいならと考えなくもなかったが、エロだけを目的にした連中と、それを骨の髄までしゃぶろうとする現地の人間たちが、妙に生々しく光っていて、どうにも居心地が悪い。
ああいう場所に長くいると、目的が曖昧になりそうで、僕は早々に引き上げた。

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日が暮れる頃、僕は『ホテル・ソゴ』に吸い込まれた。看板には「666 PESOS」とあるが、受付は八百だと言い張る。
「イラッ」
たいした金額ではない。しかし、この街の人間たちの「とりあえず吹っかけてみる」という浅ましい姿勢が、わずかに癇に障る角度で存在していて、その分だけ苛立ちが溜まっていく。
僕は呪詛を吐きながら八百ペソを支払い、独房のような部屋へ収容されたのである。

そこで僕を待っていたのは、最後の洗礼だった。備え付けのテレビを点けた瞬間、音量全開で紳士向けの悶絶音声が炸裂したのである。
「アン、アン、イエス、イエス」
壊れたリモコンは機能を停止し、狂喜乱舞の喘ぎ声が壁を突き抜ける。僕は慌ててプラグを引き抜き、沈黙を勝ち取ったが、精神的な疲弊は極致に達していた。
そして、絶望は完成する。
「ケーブルがない」
命の次に大切なiPhoneの充電ケーブルを、あの「インターネットのないネットカフェ」に遺棄してきたことに気づいたのだ。時刻は午後九時。ジプニーを乗り継いで駆けつけたが、店のシャッターは無慈悲に閉ざされていた。
フィリピンにおいて、アップルの純正ケーブルは聖遺物よりも希少だ。露店に並ぶのは端子の違うものか、粗悪なパチモノばかり。僕は、己の管理能力の欠如を呪うほかなかった。
宿に戻れば、さらなる難題が僕を嘲笑う。
ここはホテルと謳っておきながら、十二時間制だった。つまり、夕方六時にチェックインした僕は、翌朝六時に出なければならない。ここまではまだ理解できる。
そのために「モーニングコール」なるものが用意されているが、「一回四十ペソだ。出なければ追加料金だ、もち都度四十。時間をオーバーすればもう一周分の八百をいただく」と言うのだ。一瞬わからず、考えるともっとわからなくなった。
仮に僕が寝ていて電話に出なければ四十、さらに出なければまた四十。これが続く。
何回鳴ったのか、そもそも鳴ったのか、こちらには確かめようがない。
「十回鳴らした」と言われれば、それで四百が発生する。成立するのかどうかは知らないが、少なくともこちらには反論する材料がない。つまりこれはモーニングコールというより、起きているかどうかに関係なく作動するふざけた料金の仕組みである

僕は己の体内時計にすべてを賭けることにした。「起きる。五時半に絶対起きる。寝過ごせば明日もこの地獄の続きだ。起きる。起きる。起きる」
午前二時半。念じすぎた意識が、僕を叩き起こした。
早すぎる。しかし、二度寝は死を意味する。僕はフラフラの意識を繋ぎ止め、深夜特有の卑屈な思考の渦に耐えながら、朝六時を待った。
チェックアウトを済ませ、朝日を浴びた瞬間、僕の目にはアンヘレスの空が、呪われた鉛色に見えていた。どんな天使が見下ろしているのだろうか。僕は死に体で、この街からの脱出を誓ったのである。

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生贄の祭壇

九月五日午前六時。
「朝から、殺意を覚えるほどに蒸し暑い国だな」
僕は、前日から引きずっているどす黒い苛立ちを、無関係な気温という自然現象にぶつけていた。二時間半の睡眠しか許されぬ強行軍。もはや「旅を楽しむ」などという高尚な志は失せ、ただ「これ以上の不運なく、穏やかに、ただ静止してマカロニサラダでも食べていたい」という、生存本能に近い卑屈な希求だけが僕を突き動かしていたのである。
モーニングコールを巡る醜い疑心暗鬼に身を焦がした結果、明け方までの数時間、僕は薄暗い部屋で、壁を這う蟻の行列を数えながら、己の人生の底知れぬ浅ましさを反芻していたのだ。

この日の使命は明確だった。
第一に、十時に開店するあの忌まわしきインターネットのないネットカフェへ赴き、置き忘れた充電ケーブルという名の命綱を奪還すること。
第二に、今日こそはまともなWi-Fiを掘り当て、九月十日までの空白の五日間を埋める「逃亡計画」を策定すること。

しかし、睡眠不足で鉛のように重くなった僕の脳は、正常な判断を拒絶した。
「ここらへんで、いいか」
僕は、街の喧騒から隔絶された、誰もいない公園の芝生に辿り着いた。手入れの行き届かぬ雑草の臭気。僕はバックパックを枕にし、死体のように仰向けになった。台湾で大量に譲り受けた蚊取り線香を四方に燻らせ、意識を闇へ沈める。ほとんど神へ身を捧げる「生贄の祭壇」である。

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本来、生贄とは村一番の美しい娘が務めるべき神聖な役目だが、「小汚いバックパッカーですまないな、神よ」と内心で毒づきながら、深い眠りに沈んだ。

四時間後。
尋常ではない熱帯の陽光に、眼球の裏側まで焼かれるような感覚で目を覚ました。
視界が歪む。喉は乾ききり、舌は砂漠のトカゲのようにざらついている。
ふと枕元を見ると、バックパックの留め具が外され、蓋がだらしなく口を開けていた。
「祟りだ」
何者かが、僕の無防備な睡眠中に荷を漁ったのは明白だ。
しかし、もはや驚きも、悔しがる気力も湧いてこない。前日からのストレスが臨界点を超えていて、感情の方が先に尽きた。

「フィリピンの公園で四時間も寝るなんて、僕は旅人として完全に終わっている部類の人間。生贄どころか、ただの無用心な餌だ。旅人として失格している。さっさと日本へ帰り、謙虚にハローワークの門を叩くべきなのだ」
僕は一度、明確に帰国を決意した。
この二ヶ月間、僕は「自分探し」などという甘美な言葉に首根っこを掴まれ、引きずり回されていたが、見つかったのは、自己管理が甘く、バイタリティに欠け、別れを惜しんでメソメソするだけの、度し難いほどに脆弱な自分自身だった。
「情けないが、僕の旅はここで幕引きだ」
僕は、清々しいほどの敗北感を抱え、最後に残った荷物を確認した。
ガサガサ、ゴソゴソ。
「何一つ、盗まれていないだと」
生乾きの服と、使い古した洗面用具、食べかけのプリングルズ。泥棒にとっても、僕のザックは価値なき塵の集積所に過ぎなかったらしい。あまりの不人気ぶりに、僕は自尊心を傷つけられると同時に、猛烈な活力が湧いてくるのを感じた。
「わはは、バカめ。他を当たりなさい」
僕は掌を返した。荷物が無事なら、旅を辞める理由など塵芥ほどもない。僕は前言を軽やかに撤回し、ネットカフェへと爆走した。

店員は僕を見るなり、奥から無言で充電ケーブルを差し出した。スムーズすぎて逆に恐ろしい。僕は端末の息を吹き返させるため、一時間の料金を支払い、さてどうしたものかと思考を巡らせた。

前日の悪運というやつは、要するに「とりあえず目の前の問題を片付けよう」などと、目先の小事に腐心した結果の成れの果てである。「とりあえず今夜の宿」という安直な妥協が、十二時間制という名の集金システムへと僕を誘い、この惨状を招いたのだ。
ならば、思考の順序をひっくり返せばよい。
果たして、この汚濁に塗れた僕は一体全体どうしたいのか。それを先頭に立てて突っ走るべきであった。
答えは明白、僕は今「この忌々しき街から、今すぐにでも脱出したい」のである。それ以外に、この乾いた喉が欲するものなど何ひとつとして存在しない。
行き先は一つ、空港だ。
こうして僕は、次なる博打へと身を投じる。
「空港のWi-Fiという細い糸を掴み、今日中に飛び立てる航空券を手に入れて、この呪われた街を記憶から消去する」
この、あまりに無謀で、かつそれゆえに美しい強行策に僕は打って出たのである。

空港のゲートへ向かうジプニーを待つ間、僕は街角で奇妙な光景に遭遇した。

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ミニスカートを履き、完璧な脚線美を誇るオカマである。しかし、視線を上げれば、髭。その絶妙なアンバランスさは、現代美術の極致のようであった。
「これを撮らねば、何のためのニコンだ」
僕は勇んでバックパックから、日本から持参した高価なカメラを探した。
「ない」
マスタードホテル、ネットカフェ、ホテル・ソゴ、そしてあの祭壇の公園。
金持ちの息子風の物乞いまがいの餓鬼を撮影した記憶はある。つまり、あの公園で僕は「生贄」として、カメラという名の金銭的価値を神へ捧げてしまったのだ。
「祟りだ」
僕は再び、同じ公園の同じ芝生に倒れ込んだ。あるはずもない。

そもそもどこで寝ていたのか定かでない。だが、脳内の誰かが冷徹に囁いた。
「カメラなどなくとも、旅はできます。盗まれたのではありません、寄付したのです」
そういうことにしておく。
僕は無理やり、脳のギアを「君子モード」へ切り替え、再び空港へと向かったのである。

二番目に声を掛けてきた乗り合いタクシーに身を任せ、空港へ向かった。最初に現れた男が平然と口にした「二百五十ペソ」という法外な値段を、鼻で笑うかのように、十五ペソという拍子抜けする安さで僕を運んでいく。この街の経済原理は、もはや量子力学めいていて、誰にも正確には捉えられない。

空港に辿り着いたものの、航空券を持たぬ者は建物にすら入れぬという。僕は警備員に、魂の咆哮をぶつけた。
「この街のどこに行ってもネットが繋がらず、券が買えなかったのです。僕はアンヘレスという地獄の犠牲者だ。せめてWi-Fiがつながるところまで入れてくれ」

あまりの悲壮感に気圧されたのか、僕は二人の銃を携えた警備員に挟まれ、「STAFF ONLY」と書かれた異界の部屋へと連行された。
空港のWi-Fiは一応あるにはあるのだが、ほとんど使いものにならない。期待だけを持たせては、それを裏切る。だからスタッフルームのPCで直接買ってしまえ、とあっさり言われた。
なるほど、と頷きつつも、ではこの街の通信は一体どういう具合なのだろうか、と、わずかに引っかかるものが残る。

そこでは、空港の女傑たちが、いかにも当然といった顔で昼食を摂っていた。そのうちの一人が、栗鼠のように頬を膨らませ、グッチャ、グッチャと遠慮のない咀嚼音を響かせながら訊く。

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「どこ」
「どこ、と言われても、決まっていないのです、これが。理念といえば「アンヘレス脱出」、それだけが頭に張り付いていたのだから仕方がないのです。とにかくこの鬱屈した精神をどこかへ逃がしたい。波の緩やかな美しい海かマイナスイオンを吸引できる風通しのいい山か、あるいはそのどちらでもいい、どちらもあれば尚いい。ただ、あの手の、性欲と虚栄心とストレスが濁流のように渦巻く都市の只中だけは御免こうむりたい。もう少し、なんというか、呼吸のできる場所へ行きたいのだが、いかんせん知識が追いつかないのですよね、恥ずかしながら」

「セブで」と、あっさり切り捨てられる。咀嚼音まじりの、確信に満ちた一言だった。

その瞬間、行き先は決まってしまった。
紙のチケットを手にしたとき、僕はようやく、この呪われたアンヘレスから離れるための、ささやかな免罪符を手に入れたのだと思った。
できることならセブのような、いかにもな観光地ではなく、名もない島の土を踏んでみたい、などという贅沢な望みがなかったわけでもない。だが、この状況で「セブはない、他には」などと口にできるほどの余裕はない。下手をすれば話そのものが消えかねない、そんな気さえしていた。
しかも出発は八時間後だという、気の遠くなるような待機時間まで付いてきた。長い。だが構わない。
気分は軽くなり、気を抜くと顔が緩む。僕はそのまま、咀嚼音の隙間を狙って素直に礼を言った。
「ありがとう、よかった。これでだめなら、いよいよ自決するところでしたよ」
そう言うと、彼女はまた、グッチャ、と音を立てた。まるでそれが返事であるかのように。

出発までの時間。ベンチで安いコーヒーを啜っていると、一人の白人が隣に座った。
「君、二日前の夜もここにいなかったかい」
スウェーデン人のルーカス。彼もまたビザの関係で台湾から逃れてきた、僕のドッペルゲンガーだった。さらに彼の出発も八時間後とのことだった。
「こんな所、二度と来ないよ。大嫌いだ」
「猛烈に同意いたします」
宿の十二時間制という名の拷問に苦しみ、体調を崩し、待ち時間に悶絶する。境遇が似すぎている僕らは、拙い英語で生い立ちや、まだ見ぬ理想郷について語り合った。僕の英語力は、この暇潰しの時間だけで、数ヶ月分の講義に匹敵する飛躍を遂げた気がした。
国内線と国際線の分岐点で、僕らは固い握手をして別れた。
「こんなことが、してみたかったのだ」
終わり良ければ、すべて良し。
アンヘレスのドブのような記憶は、ルーカスという北欧の風に洗われた。僕はカメラを失った軽すぎるバックパックを背負い、おばちゃんの気まぐれに託した運命の地、セブへと飛び立った。