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コイガタキ

フィリピン人、日本人、韓国人が混ざり合いながら、誰一人として英語を母語としていないという奇妙な空間のただなかで、僕は突如として、人生の台本に書かれた覚えのない「恋敵」なる、およそ似つかわしくない不条理な配役を押し付けられる羽目になった。

「彼女は英語を真剣に学びにきているんだ。近付くんじゃない」
やかましい。鼓膜を無理やりこじ開けてくるみたいな、やけに甲高い声が、静かな廊下に突き刺さってきた。振り向くまでもなく、声の主は分かる。僕の同期の韓国人、例の声の高い太った男だ。

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このデブ氏が、余っている肉を細かく揺らしながら必死に守ろうとしている「彼女」とは、同じく同期の韓国人、エマのことだった。

入学から数日が過ぎ、異国の地特有の、あの変に浮ついた、どこか地に足の着かない連帯感が形成され始めた頃、エマの僕に対する態度は、にわかに、そして僕の理解の範疇を超えて過熱の兆しを見せ始めた。
「シン、もう、どこにいたの」
エマが叫ぶ。僕は、予期せぬ糾弾に心臓を跳ねさせながら答える。
「普通に授業ですよ」
「何の授業、先生は誰、次は」
矢継ぎ早に飛んでくる問いに、僕は軽い眩暈を覚える。

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「先生は、あの、髪を極彩色、というか毒々しいピンクに染めた、あのサイケデリックなご婦人ですよ。内容は忘れました。なにせ、僕の脳髄はアホという名の揮発性物質で満たされておりますから」
「ピンク髪ならエヴリンね。忘れるのは普通のことなのよ。英語くらいあたしが教えてあげる。ねぇ、シン。エヴリンとあたし、どっちが可愛い」
究極の二択。僕はこういう場面での上手い立ち回りを知らない。しかもこの問い、答え方ひとつで国際問題に発展しかねないような顔をしている。困った。
「ど、どちらも、た、大層お美しゅうございますが」
迷走する子羊のごとき僕の返答を聞くやいなや、彼女は「いやん、あたしのこと、プリティって言ったね。ムギュウ」と、日本の義務教育課程では到底教わらないレベルの完全密着を、何ら躊躇することなく仕掛けてきた。

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なんたることか。島国で奥ゆかしさという名の消極性を限界まで煮詰め、人との距離をうまく測れないまま生きてきた僕にとって、この物理的接近はもはや致死量を超えた毒に等しい。
焦燥が背中を冷たく走り、僕は脂汗を流す。彼女のその振る舞いは、計算だとか小賢しさだとか、そういう次元で語るにはあまりに強引だった。僕のパーソナルスペースという主権は、今や韓国資本のワガママボディに不法占拠されている。
僕は戸惑い、ただ棒立ちのまま、肺から漏れる吐息を調整するだけで精一杯だった。
そして、そのエマの密入国を、血相を変えて、あるいは般若のような形相で監視しているのが例のデブ氏である。
「ムギュウだと?シン、彼女から離れろ。エマもムギュウやめなさい」
ムギュウが実在の音として聞こえるのか。どうやら彼の脂肪に塗れた世界ではそれが成立しているらしい。
彼の顔には、嫉妬がこれ以上なく分かりやすい形で出ていた。ここまでくると隠す気がないというより、むしろ見せにきている。
「デブさん、それ、エマが好きって言ったほうが早いですよ」
危うく口に出しかけて、やめた。彼は休み時間のたびに、少し距離を取った位置から、こちらをじっと見ていた。暇なのか、あるいはそれが彼の役割なのかもしれない。
デブの監視は神経に障ったが、エマに親しくされることについては、どうにも否定しきれない自分がいた。

僕の精神を摩耗させる喜劇は、それだけに留まらない。
エヴリンという名の、フィリピン南部ミンダナオ島出身・二十二歳の女性講師がいた。
彼女の身体は、教育とは直接関係のない領域においても、殿方の注意を強制的に喚起してしまう構造を備えており、とりわけ胸部の発達は際立っていた。結果として、その全体像は「かわいくてエロい」と総称される類のものに収まっていた。

半畳ほどの、さながら独房のごとき密室で繰り広げられる彼女とのマンツーマンの授業。僕は己の貧困きわまる、涙なしでは語れぬ過去を、たどたどしい英語で開陳していた。

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「昔、財布を買う金すら惜しくて、ジップロックを財布代わりにしていたんですよ」エヴリンは腹を抱えて笑った。
「あははは、おもしろい。シンの話、好きだよ」
「ところが、ようやく手に入れた本物の財布を、買ってすぐ、まるで最初から存在しなかったかのように紛失しましてね」
「きゃははは、バカだね、シンは。バカなシンが好きなの」
「奇跡的に道端で再会を果たしたその財布が、これです。ご覧なさいお嬢さん。失敬、ご覧ください先生。車に丁寧に轢かれた痕跡があります」
「ぎゃははは、もう無理。ほんと大好き」
ここまで低俗で、しかも自分の肉を薄く削るような話で、これほど笑ってもらえると、僕の中のサムライの魂とやらが、かえって昂ってくる。そんなささやかな喜びに、武士の口元も思わず綻ぶ。
「そんなに気軽に『Like』だの『Love』だのを投げつけられると困りますな、先生。いや、ティーチャー・エヴリン。純日本人の僕には、その刺激、もはや劇物に分類される代物です」
「きゃはは、なんで。シン」
戸惑いが歓喜にすり替わり、僕はもはや授業という目的を忘却し、英語というツールを用いて異性を笑わせるという、一種の不敬な全能感に酔いしれていた。すると、隣の独房から、壁の都合など意に介さぬ勢いでキノコがぬるりと乱入してきた。やつは出入りではなく、「現れる」という生き物だ。

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「シン、授業は真面目に受けないとダメだよ。先生にご迷惑だろう?」
正論。言葉の中ではいちばん無菌で、そのくせなぜか人の心だけはよく腐らせる便利な刃物である。キノコは普段、水やらモバイルバッテリーやらを恵んでくれる善人だが、ことエヴリンに関しては、まるで獲物を前にした猛禽類のような鋭い眼差しを見せる。
「あなただってそうよ、キノコ君。部屋に戻りなさい」
エヴリンは講師としての体裁を、かろうじて保とうとする。
「なんだよ、俺には冷たいじゃないかエヴリン。シン、騒ぐな、わかったか」
どの口がそれを言うのか、と人は言うが、実際はたいてい普通の口である。そこに人類の救いのなさがある。僕はその救いのなさを直視しないために、視線を机の木目に沈めた。木目はいい。何も言わないから。

沈黙を切り裂いたのは、この時間キノコを担当していたティーチャー・リリーだった。
「コラ、ガキ。さっさと部屋に戻れ、この韓国チンポ頭が」
キノコは首根っこを押さえられ、そのまま自由という言葉だけは知っている飼い犬のように連行された。
キノコよ。きみはエヴリン先生を、骨の髄どころか脳漿の底まできっちり好きなのだろう。そして、どこから湧いたかわからない日本人に持っていかれまいと、必死に番をしているのが丸わかりだ。

デブとキノコ。同期の男たちが、理由もなく、あるいは明白すぎる理由を以て僕に牙を剥く。その原因はエマとエヴリン、二人の女性だ。
エマは二十歳にして英語を振り回し、自尊心を肉体にまで増築したような女だ。エヴリンは南国特有の、触ると人間をダメにする類の愛嬌を売りにする看板講師。
だが、何かがおかしい。僕は彼女たちに対して、人並みの、せいぜい可燃性の低い性的好奇心はあったとしても、人生を質入れするような恋など持ち合わせていない。
それなのに、周囲だけが勝手に物語をでっち上げてくる。

「おっぱいだね」
背後から、卑猥かつ、どことなく禅問答のような哲学性を帯びた単語が降ってきた。
僕の一週間前からこの学校に在籍している日本人の「さっちゃん」だ。

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二十六歳の彼女は、この歪で滑稽な人間模様を、冷徹な、さながら解剖医のような観察眼で見守っていたらしい。
「ひひひ。エマちゃんもエヴリンも、シンくんのこと好きなんだよ。見てたら分かるもん。いひひ」
「そんな、馬鹿な。僕はただのみすぼらしいガリガリのロン毛、不審者ですよ」
この年でモテ期が来るはずがない。人生に三度あると言うが、僕の場合はもう使い切っている。海鮮チラシ寿司の具だけを先にさらい、残りの酢飯を無感動に処理するような性分なのだ。小五の秋、小五の冬、小六の春。あれで全部だったはずだ。

僕の思考が回り始めた瞬間、さっちゃんはそれを止めるように一言を差し込んできた。
「シンくんもまんざらでもないんでしょ。だって、二人のおっぱい、見てるもん。チラチラ見てる。ひひひ」
痛恨。あるいは絶望。
バックパッカー紳士を自称し、精神の孤高を気取っていたこの僕が、あろうことかご婦人方のお胸をチラ見していたという醜態を、同胞に見透かされていたとは。僕は激しい焦りに襲われ、弁明の言葉を探すが、舌がもつれて出てこない。
「男の子だもんね。しょうがないよ」
さっちゃんは言う。そうだ。オートなのだ。しょうがない。これは僕の意思ではない。生物学的な本能という名の自動操縦が、僕の視線を、あのバインバインなスイカ、あるいは男たちの希望の象徴へと誘導してしまうのだ。これは僕という個体の意思ではなく、数十万年に及ぶ人類の遺伝子の叫びなのだ。

そこへ、敗戦野武士が命を賭した決闘を申し込むかのような、いや、というより普通にキレている、しかもだいぶキレている顔でキノコが再来した。
「シン。エヴリンのどういうところが好きなんだ?」
「どうって、明るくて、オシャレなところをみんな好きなんじゃないの」
「違う、分からないのか。ゲットしたいのかどうかを聞いているんだ」
この一切の妥協を許さぬ感情の直球勝負。
曖昧さに寄りかかり、なるべく決定という行為を回避してきた僕にとって、この問いは逃げ道がない。退けば、ひと月以上続く同居は即座に戦場へ転ずる。
僕は焦燥を鎮め、覚悟を定め、独自の、あまりに私的な哲学を掲げた。
「僕はこれから世界という名の荒野を闊歩するバックパッカーである。今ここで特定の女性と、うつつを抜かしている暇など一秒たりともないのだ。過酷な旅路に行きずりの彼女を連れて行くなど、男としての無責任の極み、あるいは人道に対する罪である。そうだろう、キノコくん」
「お、おお、そうだな」
さっちゃんをちらと見る。ニヤニヤと目を細めて笑っている。
「おっぱいを見ていたことは、天地神明に誓って、潔く認めよう。だがそれは、男という名の哀しき、そして浅ましい生き物が抱える、避けがたい業であって、恋愛という聖域とは、そもそも次元が異なる話なのだ、そうだろう、キノコくん。したがってエヴリンのことはきみに任せる。」
「おお、シン、おま、お、お前ぇ」
キノコは、なぜかアルジャーノンに花束をでも読まされたかのような感動の涙を浮かべながら僕を抱擁し、僕が愛飲していたフィリピンの、あの脳が痺れるほど甘いコーヒーを献上して去っていった。

なんという激しい情緒の起伏。彼らの性格は、まさにバギオの山の天気のように予測不能だが、その単純さ、そして純粋さが、どこか僕の汚れきった心には愛おしくもあった。
結局のところ、エマのあの距離の詰め方は、韓国における年齢の上下関係というややこしい仕組みからふっと外れ、異国に来たことで何かがほどけ、その反動がなぜかこちらに流れ込んできている、あるいは、年上でありながら頼りなげな僕への、単なる「物珍しさ」によるものだった。そういう話なのだと思う。エヴリンの軽はずみな「好きだよ」発言も概ねそんな理由だ。

「ひひひ。ガリ勉の中に不良っぽい風来坊がいるからみんな気になるんだよ。でも、意外にビビりで細かいところ気にするよね。シンくんのそういうところ、マニアにはウケるんだよ」
さっちゃんの言葉はときおり心臓に悪い。思い返せば、僕は昔からこういう扱いなのだ。
好かれるでも嫌われるでもなく、ただ外れた位置に置かれて、その外れ具合だけを丹念に観察される。
ろくでなしで社会不適合気味の人間というのは、そういう用途にちょうどいいのだろう。

高卒(実質的中卒)という、学園ドラマの端役にもなれない経歴を持ち、真っ当なキャンパスライフの熱狂から徹底的に疎外されてきた僕にとって、この擬似青春は、あまりに刺激が強く、そして毒性が高すぎた。
結局、エマもエヴリンも、僕に対してだけでなく、仲の良い者には誰に対しても、そのスキンシップを、まるで挨拶のように乱発していたことが、後に判明した。日本男児の思い違いは、だいぶみっともない種類のものだった。
のちに、エマのストーカーと化したデブ氏も、エヴリンに不器用な花束を捧げて見事に玉砕したキノコも、その人類愛という名の壮大な勘違いに気づくことになるのだが、それはまた、別の日の、胸が焼け付くような、暑苦しい物語である。

パーカーのぬくもり

熱帯。その甘美で、どこか知能指数の低そうな響きに毒され、僕の脳髄は完全に茹で上がっていたと言わざるを得ない。
フィリピン。そこは太陽が暴力的に降り注ぎ、原色の花々が狂い咲き、人々は一年中裸に近い格好でマンゴーを齧りながら「ハッピー」と叫んでいる。そんな、あまりに低能な偏見を、僕は成田を発つ際のバックパックに、ぎゅうぎゅうに詰め込んでいたのだ。
ゆえに、僕は「断捨離」という名の、一種の精神疾患にも似た虚栄心を発揮した。
「荷物の重さは、迷いの重さである。真の無頼は、ふんどし一丁で国境を越える」
そんな寝言を吐き、僕は持参していた長袖のすべてを空港のゴミ箱へと打ち捨てた。
これぞ真のバックパッカー、真の放浪者の姿なりと、薄ら笑いを浮かべて機内に乗り込んでいた。

ところが、どうだ。
標高一千五百メートル、雲上の迷宮バギオの七月は、僕の浅薄な哲学をあざ笑うかのように、陰湿で、粘り強く、そして殺意を孕んだ冷気を湛えていた。
寒い。五臓六腑が凍てつくほどに寒かったのだ。
気温は十四度。現地の人々は、あろうことかダウンジャケットや厚手のパーカーを羽織り、さも当然といった顔で闊歩している。
その傍らで、僕は日本から持ってきた、首元がヨレヨレになった薄っぺらなTシャツ一枚で、小刻みに、いや、もはや全身の細胞が個別にサンバを踊っているかのような激しい痙攣を披露していた。
「死ぬ。このままでは、バギオの冷たい土塊と化す。異国の地でTシャツのまま凍死した男として、末代までの恥を晒すことになる」
焦燥が、冷え切った血流に乗って脳内を駆け巡る。僕の誇り高き「軽装主義」は、物理的現実を前になす術もなく瓦解した。

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そんな僕の、見るに堪えない生物学的な危機を救ったのは、この学校でいちばん仲良くしているメガネくんだった。彼は数ヶ月の滞在を経てバギオを知り尽くしており、毎週水曜の夜に開かれる「ナイトマーケット」こそがアツいと宣うのだ。
貧乏バックパッカーを自称する身としては「物を買う」という堕落は避けたいところだが、もはや背に腹は代えられない。僕は緊急で肌を保護しなければ、近いうちに風邪を引き、異国の天井を見つめながら果てる確信があった。
計画には、自習室の隣席であるさっちゃんや、同期のドンキくん、そしてすでに四十カ国を渡り歩いてきたという生粋の旅人、僕と同い年のりょうちゃんも加わった。

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「もちろんわたしも行くよ。ワクワクする」
世界を歩き尽くしていながら、いまさらフィリピンの市場に目を輝かせる彼女こそが真の旅人であり、「荷物が少ないとイケてる」などとスタイルにばかり囚われている僕は、思想だけ肥大した、ままごとをしている雰囲気旅人、または単なるアホだ。

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日本人五人でタクシーに乗り込む。
「ひとり十五ペソだって」
「てことは三十五円くらいってすげえ」
和気あいあいとした空気を、ドンキくんの絶叫が切り裂く。
「やべぇっす、俺、金持ってくんの忘れてきたっす。誰か五十ペソだけ貸してほしいっす」
五十ペソでなにが買えるんだよ、と一同は彼を糾弾した。
「タクシー乗れるっすよぉ」
金も持たずにマーケットへ向かうという、ある種の宗教的境地に至ったドンキくんに呆れつつ、タクシーは繁華街へ到着した。

そこは人と物と、果物や肉や魚が勝手に腐って、しかもそれを誰も止めない感じの匂いで満ちていた。
僕は人生初のアジア的カオスに、震える体とは裏腹に、ジワリと神経伝達物質だけは律儀に仕事をしていた。
「あぁ、いいなぁ、金さえあったらなぁ」
死んだ魚のような目で呟くドンキくんに百ペソを恵んで放流し、僕は命を繋ぐための衣類エリアへ向かった。りょうちゃんが僕の震えを見逃さず、獲物を狙う目になる。
「シン、パーカー買うんでしょ。私に任せといて」
彼女は僕が目星をつけた青いパーカーの前に立ち、店主への猛攻を開始した。
「三百ペソだ、安いだろお嬢ちゃん」
「お願いお願い、ディスカウントプリーズ、おねがい、スリスリスリスリ」
「んもうっ、お嬢ちゃん、かわいいから負けたよ、八十ね」
なんと。英語が苦手だと言いながら、ほぼ日本語の甘え声だけで、彼女は三百ペソを八十ペソ、日本円にして二百円弱まで叩き落としたのだ。
「ほら、安くなったよ、着てみて。あらぁ、いいじゃーん、あんた、似合ってんじゃーん」
まるで、母親に服を買ってもらっている中学生のような情けない構図になったが、手に入れた「袖」の温もりは、何物にも代えがたい福音であった。
「ありがとうお母ちゃん、おら、あったけぇよ」

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「なんだよ男が着るのかよ。金返せチッ」
服屋店主の舌打ちを背に浴びながら、僕もお返しに彼女の靴の交渉に挑んだが、靴屋の男はいぼ痔でも患っているのかという頑固さで首を振るばかり。あえなく敗退した僕を尻目に、彼女が再び戦場へ。
「二百ペソでいけた」
八百が二百。安すぎて、もはや計算する気も失せる。それも、PUMAとかいう、僕でも知っているブランドの、しかもやけに綺麗なやつだ。
本物かどうかは知らない。というか、どうでもいい。彼女が、あのよく分からない旅人の魔法みたいなものを使った、という事実だけで、十分だった。世界を旅してきた女の、言語をあまり使わない交渉術に、僕はただひれ伏すしかなかった。
そして当然ながらすべてが安い。安すぎる。さっきまで命の危機に瀕していたはずの僕の頭は、その事実を忘れ、別の種類の興奮にじわじわと侵食されていった。
「得をしている」という、あまりに単純で、あまりに抗いがたい快感だった。

買い物を終え、五人でビールを飲み始めたところで、さっちゃんが邪悪な提案を放り込んできた。
「ねぇみんなでゲテモノ食べない、虫、昆虫、ひひひ」
メガネくんは眼鏡をいじって時間を稼ぎつつ、結局は聞かなかったことにして、「さて、そろそろ帰りますか」と言った。
多数決という名の民主主義的暴力により、僕たちは「ゲテモノ食売り場」へ引きずられていった。
まず食したのはカブトムシの幼虫に酷似した物体。

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男性陣は一様に限界を迎え、強がっていたメガネくんの瞳には涙が滲む。一方、りょうちゃんという玄人、さっちゃんなる怪物はおいしそうに三匹を連食している。
次に現れたのはタガメの唐揚げ。

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「なんやねんこれ、ほぼゴキブリですやん」
岐阜の人間(自称名古屋出身)とは思えない言葉がドンキくんの口から飛び出す。
口に含み、ゆっくりジャリ、と一噛み。咀嚼を拒否した僕の胃袋は反乱を起こしかけた。
そして真打ち、バロット。孵化寸前のヒヨコが閉じ込められた、灰色の呪物のようなゆで卵だ。

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「か、顔があるよ」
「あ、足があるよ」
「クチバシがはみ出しているよ」
メガネくんから僕へ、僕からりょうちゃんへ、次々とパスされる呪いの卵。
りょうちゃんはそれを押し付ける相手を探し、「昔ヤンチャしてました」と自己申告するドンキくんに白羽の矢を立てたが、当の本人はさきほどのゴキブリの唐揚げを境に、どこかで静かに人生と向き合っているらしく、姿が見当たらなかった。
行き場を失った呪物が、ふわりと宙ぶらりんになる。それを、さっちゃんが何の躊躇もなく掴み取って、無造作に口へ運ぶ。
「美味しい〜! 親子丼の味がするよ!」
その光景に、僕たちは言葉を失った。

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帰りのタクシー。ドンキくんがニヤニヤしながら、妙な包みを差し出してきた。必要な時に見つからず、要らない時に顔を出す、いつかもらった保冷剤のような男だ。
「ふっふっふ、じゃーん、これ、シンさんにあげます」
それは、僕が貸した百ペソで彼が購入した、謎の木彫りの置物だった。
「いいやつだ、キミはほんとにいいやつだけどマジでいらない」
結局この夜、遊び倒して飲み歩いたにもかかわらず、使った金は日本円で千円にも満たなかった。

気づけば僕は、値札を見るたびに日本円へと換算していた。
そして、その数字が小さければ小さいほど、理由もなく勝った気分になっていた。
必要かどうかなど、もはやどうでもよかった。
百ペソで、まったく必要のない木彫りの置物を手に入れたドンキくんもまた、同じ毒に侵されつつある。安いというだけで、それを良い買い物だと思い込もうとしているのだ。
新しく手に入れたパーカーは、裾が少しほつれていて、知らないメーカーのタグがついていた。
だが、旅の最中にいるかぎり、それが気になることはないのかもしれない。
その温もりが、どこかひどく、正しいもののように思えた。

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百の島々と、記憶の屍

フィリピンの海。その輝きは、僕のような薄汚れた精神の持ち主を浄化するにはあまりに眩しすぎた。
「ハンドレッドアイランド」百の島々。海面に点在する小島の群れを眺めながら、僕は得体の知れない疑念を抱く。
「本当に百個もあるんですか。ないでしょ。誤差あるよね」
「実際には百二十五個ある」と、現地のビーチボーイは言った。
多いほうの誤差かよと、思わず胸の奥で声が上がった。
「細かいことは気にするな」という大らかな無責任さが、すでに海面から立ち上っていた。

バギオの霧に包まれた隠遁生活から脱出し、車を走らせること三時間。企画者のメガネくんを筆頭に、さっちゃん、ドンキくん、りょうちゃん、そして新たな面々を加えた総勢九人の日本人が、八人乗りのバンという名の密室に運転手を含めた十人がぎゅうぎゅう詰めにされていた。
車内は、すでに軽いパニックだった。
「いや飛ばしすぎでしょ!」と誰かが前方に向かって声を荒げる。だがドライバーは気にも留めない。そんなに急ぐ理由があるようには見えなかったが、アクセルだけは一切の遠慮を知らなかった。
時速九十キロのまま、舗装の剥がれた穴ボコに突っ込む。次の瞬間、車体がふわりと浮いた。内臓が一拍遅れて持ち上がる。
ガードレールのないカーブにも、そのままの速度で突っ込んでいく。遠心力に引き剥がされるように、全員の身体が片側へ流れた。
一瞬だけ、死を意識した。それでも、なぜか笑っているやつがいる。その感覚が、よく分からなかった。海外に出ると、人はほんのり壊れるのかもしれない。

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命からがら到着した僕たちは、まず「SM」という、サドマゾヒズムを連想させる過激な名の大型スーパーで買い出しに励んだ。
夜のバーベキューに備えて、肉や野菜、そして大量の酒をカゴに放り込んでいく。南国の暑さのせいか、誰もが必要以上に気が大きくなっていた。
「いいですね~、全種いきましょう! 早稲田時代、ラグビー部の合宿で肉の焼き方にはうるさかったんですよ、僕」
そう宣うのは、事あるごとに「早稲田卒」という学歴の御旗を振り回すワセダくんだ。彼の会話の語尾には、常に(注:僕は早稲田ですが)という不可視のテロップが流れている。

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宿泊先のコテージは、ヤシの木が乱立する南国の楽園そのものだった。だが景色に見惚れている暇もなく、現実はすぐに「部屋割り」という名の醜悪な政治闘争へと引き戻される。女子四人、男子五人。寝室は二人部屋が四つ。必然的に男子一人があぶれる。
「あっ、おれリビングでいいっすよ」
自らハズレ役を買って出たのは、語学学校の日本人スタッフのヒゲヅラ氏。

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しかし女子陣の視線は冷ややかだった。
「コソコソ、メガネくん、なんであの人誘ったの。なんかいつもエッチな目で見てるのよ」
そう断罪したのは、玉ねぎのような輪郭にダイナマイトボディを詰め込んだ学校古参の太った女だ。

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「ヒゲさんって、あの人ってなんか 『下着泥棒顔』じゃん。すごいやだ」
下着泥棒顔。これほどまでに残酷な、しかし言い得て妙な偏見があるだろうか。
結局、ワセダくんが「早稲田流の民主主義」を盾にジャンケンを強行した。類い稀な空間把握能力を持つ彼の迅速な「空気読み」により、主催者のメガネくんがソファで寝るという不条理な結末で事態は収束した。

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いよいよツアー開始。細長い屋根付きのボートに、九人全員が詰め込まれる。
「いやほんま、みんな若すぎて気ぃ引けるねん。うちこういうノリ苦手やのに、なんでわざわざ誘ったん」
エンジン音に半分ほど削られながら、三十代のナニワさんが言う。

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「まあまあまあまあまあまあまあまあまあまあまあまあ」
メガネくんは、波に揺られながら、決して核心には触れない種類のまあまあを延々と吐き出している。
ツアー代を安くするために頭数を揃えたなどという、あまりに現実的な事情は、その「まあまあ」の奥底にきれいに沈められていた。

「フィリピンの酔い止めなんて、成分が怪しくて早稲田卒の論理的思考としては信用できん」
などという、どこで仕入れてきたのか分からない医学的見解を吐き捨て、丸腰で海に挑んだワセダくんを、南国の波が容赦なく叩き始めた。論理と波は相性が悪い。
「シンさん、大変です、ワセダさんが吐きました!」
ドンキくんが血相を変えて報告に来る。報告というより、速報である。
「なにい」
「ワセダさんのゲロに、色とりどりの美しい小魚が寄ってきています。めっちゃ食ってます」
だから見にきてくれ、とでも言いたいのか。
高学歴の撒き餌は栄養価が高いのかもしれない。あるいは、知性というものは海に還元されると、こういう形で評価されるのかもしれない。

ワセダくんの嘔吐を契機として、我々はじわじわと沈黙に追い込まれていった。
さっきまで猿山のように騒いでいた連中が、たった一人の胃袋の反乱によってここまで静かになるのだから、人間というのは実に頼りない。文明だの学歴だのを積み上げたところで、最後は船の揺れに負ける。
ボートはときおり速度をゆるめ、そのたびにガイドが島の説明を始める。だがこれが一切わからない。フィリピン訛りの英語がどうこうという話ではなく、銃撃戦のようなエンジン音に彼の声は飲み込まれている。まるで塹壕戦で指示を出す歩兵隊長のようだが、実際はただの禿げた優しきお父さんである。

「なんかもう、いいよね」
メガネくんが言った。観光に対する信頼を、静かに放棄した声だった。
気づけば、どの島も同じような形に見えていた。さっきまでありがたがっていた絶景が、今では量産型の南国にしか見えない。美しさというのは、数が増えると急速に価値を失うらしい。人間もだいたい同じだ。
数分で、我々はこのツアーに飽きてしまった。
暑さにやられたのか、それとも別の回路が先に焼き切れたのか、「早くコテージに戻りたい」という気配が、誰からともなく発生し、当然のように全員へ伝染していく。
人間は、感動ではまとまらないが、不快においては驚くほど団結する。

島に上陸し、救命具を外すと「露出」が僕たちを襲った。
四十カ国を渡り歩いてきた猛者・りょうちゃんが、眩いばかりの褐色の肌を水着に包んで登場したのだ。男性陣の視線が、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように一点に集中する。
「シンさん、大変です! 具合悪いくせに、理性の輪郭を曖昧にするような白く照り返す美しい砂浜で寝てるワセダさんが勃起しています」
「なにい」
「りょうちゃんの健康的かつ妖艶な、黒なのに眩しいビキニを見て、寝ながら反応しちゃってます。早稲田の誇りがそそり立ってます」
「ドンキくん、いちいち報告しなくていいからね」
嘔吐と生理現象が交錯する、熱帯の闇鍋。
「あっちの集団がアタシのこと見てる。ヤッダーもう」
タマネギは相変わらず自意識の炎を燃やしているが、もはやこの地では、誰が何を欲望し、誰が何を排泄しても、それは風景の一部でしかなかった。

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コテージへ戻り、BBQを開始すると一同の活気は戻った。
元料理人である僕が率先して包丁を握り、メガネくんやりょうちゃんが焼き場の準備をした。
ヒゲヅラとさっちゃんはすでに飲んでおり、タマネギは「太りやすい体質だから先に野菜を」と言いながらキャベツを爆食している。
キャベツにだってカロリーはあるし、その食い意地のほうがよほど本質的な問題だと思うのだが、本人は対策がうまくいっている顔をしている。
ワセダは体力を削られ、「ゼリーくらいしか無理です」と弱気なことを言っている。彼より十歳くらい年上のナニワさんは、含みのある笑いを見せながらゼリーを与える。
一方ドンキくんは、ビーチの裏手で地元の少年からマリファナを買ったと得意げだったが、それはどう見てもそれっぽい色をしたただの茶葉であり、要するにゴミだった。

バーベキューの狂宴が幕を閉じる頃、一同は散り散りとなり、僕はさっちゃんと庭のベンチで学校内の噂話などをして、ゆっくりビールを飲んでいた。
時間はすっかり弛緩しきっており、このまま何も起きずに終わる気配すらあった。
そこへ、そういう空気をまるごと台無しにする類の出来事が起きた。

「ねえ聞いて! タマネギちゃんとヒゲヅラが女子部屋に篭っちゃったんだけど! 鍵も閉まってる!」
酔ったりょうちゃんが、事件だけを持ってくる。
あれほど「下着泥棒顔」だの骨格がセクハラだのと騒いでいたタマネギが、いまやヒゲヅラと密室にいる。
さらには「なんかこのノリ苦手やねん」と言っていたナニワさんが、高学歴男子にゼリーを与えるという、よくわからない使命を帯びて別の部屋にこもっているらしい。
人間というのは、言っていることとやっていることの辻褄を合わせる気が最初からないようだ。旅は、その事実を、容赦なく表に出す。

寝床を奪われた僕ら三人は、さっちゃんの提案で、星を見るために路上へ這い出した。道路の真ん中で川の字になるほど酔っ払っていた。
「車の音がしたらすぐ逃げればいいよ。ひひひ」

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四方からせり出したヤシの木の葉が、まるで僕を祝福するかのように包囲し、空はやたらと細く小さく切り取られていた。逃げ場を塞がれたその中心に、星々がこれでもかと詰め込まれ、発光する光の洪水となって僕の貧相な網膜に溢れ返っている。
アルコールでとろけた脳髄に、この過剰な光を浴びせられると、人間は薄汚い正気などかなぐり捨てて、どうしようもなく正直になってしまうらしい。正直になる、などという高尚な話ではない。ただ、己の卑小な魂に対して、もはや言い逃れが利かなくなるという、物理的な追い詰められ方だ。
僕は、これまで歩んできた薄っぺらな足跡を反芻しようとしたが、脳裏に浮かぶのはやらなかったことの死屍累々だった。やれたはずのこと、やるべきだったこと、そんな一切合切を時期尚早だの諸般の事情だのといった空虚な言葉で先送りし、そのまま忘却の彼方へ放逐してきた。大した人生ではなかった。いや、大した人生にしようという気概すら、最初から持ち合わせていなかったのだ。
それなのに、僕は「旅」という記号に飛びつき、劇的な変容などという安っぽい奇跡を期待していたのかもしれない。笑わせるな、という話である。旅とは、未知の何かを授けてくれる聖母ではない。ただ、元から内側に溜まっていた澱を、雑に、執拗に引きずり出してくるだけの装置に過ぎない。しかも、抽出されるのは大抵、救いようのない凡庸な中身である場合がほとんどだ。
そんな救いようのない真実を、やけに素直に認めている己の姿が、ひどく薄気味悪かった。星の輝きが度を超すと、人間はここまで安直に、かつ無防備に解体されるらしい。
その後の記憶はない。
気がつけば朝で、あの星空も、身の毛もよだつような正直な気分も、すべては熱病が見せた悪夢のように霧散していた。
だが、夢にしては後味が悪かった。

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翌朝。僕の鼓膜を無遠慮に震わせたのは、さっちゃんの快活さだった。
「おっはよー、ひひひ」
その声は、二日酔いでドロドロに溶け出した僕の脳髄を、ミキサーで高速回転させるに等しい暴挙である。目を擦り、視界をどうにか繋ぎ合わせると、そこには驚天動地の光景が広がっていた。
誰かの部屋から引きずり出したのか、薄っぺらなマット。その上でりょうちゃんが、野生の獣のごとき無防備さで爆睡している。しかも、僕のすぐ隣で。
「なんじゃこりゃあ!」
「あー! びっくりしたぁ!なんでぇ」
僕の絶叫に跳ね起きた彼女の顔は、昨夜のアルコールと混沌をそのまま煮詰めたような、実に締まりのない表情を呈していた。記憶の断片をいくら手繰り寄せても、路上で星を眺め、人生の無意味さに浸っていたところまでしか繋がらない。なぜ今、僕はこの女傑とマットを共有しているのか。
「覚えてない」
「同じく」
ソファに腰掛けたさっちゃんが、僕らの記憶喪失をおかずに白飯でも掻き込めそうな顔でニヤニヤしている。
僕とりょうちゃんは、酒は飲めるが、注がれた分だけ律儀に破綻していく程度の肝臓しか持ち合わせていない。一方で、この事態の全容を把握しているのは、酒をいくら流し込んでも毛穴から一滴も毒素を出さない、この異常体質のさっちゃんだけだ。
「三人で寝るにはちょっと狭かったかな。ひひひ」
さっちゃんが放ったその一言は、答えの体をなしていないどころか、事態をさらに迷宮の奥へと押し込んだ。「三人で」とはどういうことだ。数式が合わない。誰が、どのタイミングで、どのような物理的配置でこのマットに収束したのか。彼女の微笑みは、あえて真実を隠すように曖昧で、そのくせすべてを知っている顔をしていて、人をより混乱させる。
二日酔いの頭痛とともに、僕は思う。
この海は、確かに美しかった。だが同時に、人間が長年かけて築き上げてきた「理性」という名の安っぽい石垣を、波打ち際の砂の城のごとく崩壊させる場所でもあったのだ。
僕はようやく気づき始めていた。旅とは、未知の絶景を網膜に焼き付ける高尚な行為などではない。ただ、自らがろくでもない姿へと剥落していく様を、特等席で眺めるだけの自虐的な興行なのだ。
僕は語学の勉強に来たのか、それとも単なる放蕩の旅に来たのか。いや、もはやどちらでもいい。この混沌とした、甘酸っぱくて、一銭の得にもならない情けない日々こそが、僕にとっての「旅」という名の毒の正体なのだ。
ハンドレッドアイランドは、実に美しい場所だった。
そして同時に、人間を修復不可能なまでにろくでもない状態へと甘やかして腐らせるには、あまりにも都合のいい場所でもあったのだ。
かくして僕は、絶景と引き換えに、取り立てて価値のない堕落をしっかりと持ち帰ることになった。

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僕は続かなかった、旅は続く

バギオの語学学校に身を投じてから、三週間という月日が流れた。それは僕がフィリピンという未知の土壌に足をつけた時間であり、日本を脱出してからの全生涯でもある。つまり、僕の貧困な経験則における海外の定義とは、この四方の壁に囲まれた学校そのものに他ならなかった。
だがここ数日、僕は学校に顔を出せなくなっていた。幽霊部員ならぬ、幽霊留学生。理由は単純明快、飽きたのだ。
といっても、英語が飽きるほど上達したわけではない。ただ、外国人相手に気後れしなくなり、出鱈目な文法を垂れ流す羞恥心が摩滅したという一点において、自分へのジャッジを甘口に設定すれば成長と呼べなくもない。しかし、教壇に立つのはフィリピン人で、座席を埋めるのは韓国人。少数派の日本人とモンゴル人、台湾人が彩りを添える。「これは、本物の英語なのか」そんな、どこか根源的な違和感が首筋を撫でる。英語を学びにきたはずが、僕の鼓膜に届くのは、現地の訛りと隣国の情熱が混じり合った、ハイブリッドな異音ばかり。

二つ目の理由は、遊びすぎ。ナイトマーケットで埃を被った品を漁り、ビーチで夜通しバカ騒ぎをする。物価の安さに甘え、毎晩のようにぬるい安酒を胃袋に流し込む。一限目のチャイムが鳴る頃、僕の意識はまだシーツの海を漂流している。仲の良いドンキくんやメガネくんも同類で、彼らが教室にいる時は僕も出席したが、結局は校内のビリヤード場で延々と球を突く。

そして、最大の理由は韓国人である。彼らとの関わり合いに、僕は底知れぬ疲労を覚えていた。気づけば授業以外では日本人としか群れなくなり、語学学校というシステムの歯車でいる意味を見失っていた。
学校にはあらゆる年齢の日本人がいた。「気持ちは二十歳やで」と宣う三十代のナニワさんや、「誰がジジイだ! おじさんだ」と憤慨する初老のトミオ。
対して、韓国人勢力はほとんどが二十代前半。僕の同期である二十八歳のハイトーンボイス・デブは、彼らの社会では最年長に近い長老格だ。
儒教的価値観が根付く彼らにとって、年齢による厳格な階級秩序は、年上を絶対王政の君主に等しい存在とする。デブ氏は日を追うごとにその本性を現し、当初の初々しさは消え失せ、今や完全なる「校内番長」として君臨していた。
「キノコおぉぉ」
「はいいい」
「コーヒー買ってきて」
「はいいい」
あの不自然に高い声も、醜悪に肥大した肉体も、後輩韓国人にとっては不可侵の領域。

「はじめまして、何歳ですか」彼らにとって年齢確認とは、初対面で最速かつ正確に、己の立ち位置を把握するための軍事行動に等しいのだ。

そんなある日、僕のルームメイトであり同期のキノコから飲みの誘いがあった。
「あのデブと?」
「そうだ。シンを呼べばエマも来るかもしれないからな。今夜シティまで出て、コリアンレストランに飲みにゆくぞ」
「じゃあメガネくんとかドンキくんも誘っていいかな」
「これは『同期の会』だから同期ではないメガネはだめだ。そしてあのお方はドンキがお嫌いだから連れてくるな。シンだけでいい」

要するに、エマにベタ惚れのデブ氏が、僕に懐いている彼女を釣り出すための「エマ献上の儀」を企てているわけだ。
「エマの呼び出しに失敗すれば俺がなにを言われるか分からないんだ。なあ、シン頼む。俺を助けるつもりでもいい、エマを誘ってみてくれないか」
「分かったよ。しかし僕がエマに断られたらどうするんだい、キノコくん」
「それはそれであのお方はお喜びになる」
「性格までデブじゃねえか」

キノコへの義理もあり、僕はエマを誘った。
「なぁにシン」
「エマちゃん、今夜飲みに行きませんか」
「イエス、行くに決まってる! シンから誘ってくれるなんて嬉しい」

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だが、デブとキノコの企画だと知るや、彼女の表情は凍りついた。
「なんということでしょう。『とっても行きたい激アツナイト』から『ゲロクソイベント』に変わっちゃった。でも、シンの誘いだから、行く、けど」
「ご、ごめんね。キノコのお願いなんだ」
当日、韓国料理店に集まった四人の前には、一発目からソジュが並んだ。緑色の瓶に詰められた、無色透明の、殺菌剤を思わせる液体。
デブは学力テストで「ビギナー」の刻印を打たれているが、同国人に囲まれると英語を放棄する。真面目な顔で、演説のような長い韓国語をエマやキノコにぶち上げている。
「彼はなんて言ってんの」と、エマに問う。
「あとで教えてあげるね」彼女の強制的に人の気分を明るくさせるようないつもの笑顔が消えている。
その表情を見れば、事の次第はおおよそ察せられる。すなわちデブ氏は、僕には到底聞かせ得ぬような類いの言辞を、懲りもせず執拗に繰り返しているに違いない。
「気にするな、乾杯だぞ」と、どこか敵軍へ寝返ったような気配を帯びたキノコが、欺くような顔でこちらを見たかと思えば、すぐに何事もなかったかのように真面目な顔つきへと戻る。
デブが立ち上がり、韓国語の呪文じみた乾杯の音頭を吐く。一応英語を勉強しにきているのだから英語を使えばいいのに、と僕は思う。そもそもここはフィリピンだ。
「おいしゃー」という、どうやら乾杯の掛け声らしき一声に呼応して、我々四人はグラスをぶつけ合う。三人は一息に飲み干したが、僕だけは用心深く匂いを嗅ぎ、少しずつ舌に乗せて毒味をする。
まずい。日本の焼酎ですら避けて通る僕に、この化学薬品めいた味は酷だった。
僕はソジュを置き、ビールを注文する。その瞬間だった。
「パッキンジャパニージュー!」
デブの目が血走り、ガタと立ち上がると、僕の胸ぐらを鷲掴みにした。
「えええ、なになになに。ファッキン・ジャパニーズか。発音キモくて暴言になってねえよ」
母国語の構造上、FとPの区別がつきにくく、Fの発音は難しいらしい。我々にとってのVとBの違いのようなものだ。
「あーあ、やっちゃったね、シン」
キノコは地元の荒っぽい先輩の逆鱗に触れた者を面白がるような顔をしている。実際、似たような状況だ。
「ぱーっく!」デブは眉間に皺を、いや、脂肪を寄せてファックであろう単語を叫ぶ。
観たことはないが、韓国ドラマのクライマックスにありがちな、自分の感情の爆発を格好いいものだと錯覚する、あの種の発作である。感情を見せない訓練を日頃から行っている我々日本人とは大きく違う。
デブの顔には陶酔めいた真剣さが宿り、太った体ながらも一応は「キメ」を意識した姿勢を取っているのだが、やはりどこか滑稽だった。キノコは「日本人を懲らしめる同志の勇姿」を記録するつもりらしく、韓国産のスマートフォンで撮影を始めている。

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「なんだよこれ。おいブタ、そろそろ離せ」
騒ぎは店員に宥められて収まったが、僕の腹の虫は簡単には収まりそうになかった。
エマは黙って下を向いている。僕は、日本人だから空気を読み、彼女の心情くらいは察せるはずだと勝手に思う。
「好きな男がこれから処刑されてしまう、それにソジュは一気飲みしなければならない法律があると教えなかったのは私の落ち度だ、ああ悲劇」と、まあそんな具合である。都合よく考えれば、だいたいそういう話になる。
良いシーンが撮れたのか、デブは手を離し、ゴニョゴニョとなにか言いながら、木製の硬い椅子にその巨大な尻を再びめり込ませた。椅子のほうが気の毒だ。
「シン、寛大なこのお方はお前を許してくれるそうだ」
なんという言い様だろうか、キノコよ。もう完全に国替えを済ませた武将の顔をしているじゃないか。
ふと見ると、ナイトマーケットで買ったパーカーの首元に、赤い甘辛いタレがべたり付着していて、これがまた妙に現実的で、気分が悪くなる。僕はこういうどうでもいい汚れで心を折られることがある。
これまで喧嘩は主に口で済ませてきたし、拳で語れと言われても、筋肉量で敗北するのが関の山だ。それ以前に、僕は韓国の唯一酒、ソジュを飲まなかっただけだ。ソジュに誇りがあるのはわかる。僕も日本のエビスが好きだ。それでもここまでの扱いを受ける筋合いがあるのかという疑問だけが、やけに冷静に残る。
キノコは調子に乗るという言葉を、寸分の誤差もなく体現した調子で笑う。
「そのかわりにこれを飲め、一気飲みだ。おいしゃー、おいしゃー」
「わはは、パッキンジャパニジュー、飲め飲め」
僕が何を許されたのかは永久に謎のまま、今度は水用のやたら大きいグラスになみなみとソジュが注がれる。一気飲みを強要している。不気味に楽しげな韓国語の歌をなぜか合唱している。
僕は一瞬、彼らの明らかな遅れに触れた気がした。酒を飲まない者が、どこか欠陥品のように扱われるあの感じ。日本ではすでに、飲まないことは何の罪でもなく、断ることも面倒な作業ではなくなっている。酒の強さが人間の価値と直結しないなどということは、今さら言うまでもない話だ。
まだ二十歳のエマは、年上というだけの重力に押しつぶされたように、手を膝に置いて黙り込んでいる。そんな彼女を気の毒に思った。
僕はそのふざけた一気飲みの命令を黙殺し、エマに英語で話しかける。
「エマ、なんで僕は怒られたの。一杯目のショットを飲まなかったからかな」
「うん、まあ、そんなとこ」
「こいつらヤバいから二人で違う店行かないか。それかもう寮に帰ろう」
「あはは、いいね。でも、そうしたいんだけど、できないの」

無視されたデブの怒りは、ついに沸点を超えて決壊した。
「年下」の「日本人」が、自分が目を付けていた「女」と、一文字も理解できない「英語なる呪文」で談笑している。その屈辱に耐えかねたデブは、テーブルの上に不潔な足をドカッと供え、禁煙の店内で平然とタバコに火を点け、狂ったように韓国語の怒号を撒き散らし始めた。
「よぉっ」と、どこから出ているのか分からぬ発声をしたかと思えば、キノコが再び動画を撮り始める。取り皿も使わずテーブルに直接食物を置く彼らだが、デブはその脂ぎった残飯の上に汚い足を乗せ、誇らしげにふんぞり返っている。

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「なんでそんなことができる」
フィリピンの不衛生な便所や、屋台で虫を揚げていることや、壊れたような物価の安さに驚くことは、カルチャーショックですらない。日本という地で日本人として二十六年、それなりに生きてきて、公衆の面前でここまで獣になれる人間を僕は見たことがなかった。これこそが真の文化衝撃であり、僕は言葉を失い、ただ石のように固まってしまった。
店員がタバコを消せ、足を下ろせと至極真っ当な注意をしに来たが、デブは鼓膜を震わせるハイトーンボイスで毒づき、タバコを地面に打ち捨てた。もちろん、通じるはずのない韓国語で、だ。
デブは今、日本の男をねじ伏せ、人生の絶頂に君臨していると信じ込んでいるのだろう。「世界とまでは言わないが、アジアではなかなか上の方なんじゃないの、あらゆる面で」そう見込んでいるに違いない。眉間に皺を寄せ、鏡の前で幾度も練習したに相違ない渋い台詞を吐き、エマに己の男気をアピールしている。
それを見つめながら、僕には、親友だと思っていたキノコが、突如として別の銀河の住人のように映った。あちら側の住人として、当たり前のように笑っている。その姿に、僕の心は急速に冷え込み、言いようのない悲しみがじわじわと胸に滲んだ。

「世界じゃそんなの、全然格好よくねえんだよ、お前ら」
ここで言う世界とは、自国の外側のことだ。世のスタンダードも知らず、身内だけでいきがる井の中の蛙。そういう含みまで込めた、精一杯の捨て台詞だった。
どうせ伝わりはしない。日本語で言ったのだから。
一銭も払わず、ただ一人店を出た。

後日、エマが事の真相を教えてくれた。
「怒らないで聞いてね。 『今日は同期の会を開催できて嬉しい。しかし本筋は日本人との勝負である。俺は絶対に負けない。見ててくれエマ』  って言ってた」
「勝負とは」
「ソジュを何本飲めるかの」
くだらない。あまりにも。

「あとは、『もしシンが無礼を働いたらキレちゃうかもな。その時はキノコ、動画でも撮ってくれよ』って。バカみたいだよね。ブタみたい」
エマはそう言いながら、周囲にちらりと目を走らせた。あの二人の姿は見当たらなかったが、それでも彼女は声をひそめた。

「あの時、『俺が注いだ酒が飲めねぇのか。レディの前で侮辱しやがって、許さんぞクソ日本人』 ってヤンニョムがべったりと付着した指でシンの胸ぐらをつかみながらそう言ってたの。韓国では年上に逆らえないから、私も助けられなかった。ごめんね」

韓国のテレビバラエティでやっていそうな「いつか言ってみたい熱いセリフランキング」の、四位あたりだろうかと考えて、僕はひとり笑った。
きみの国の男は皆、こうして「強さ」を誇示するのかと問うと、エマは苦笑した。
「日本をわたしは知らないから比較はできないけど、多いと思う。わたしはそれ恥ずかしいと思うんだ。弱くても優しい人が好き。でも」
言葉を切り、また左右を見渡す。
「国に帰るとデブとかキノコみたいなのばっかりで、嫌なの。だから私はアメリカに行くのよ」
この一件で、僕は学校の韓国人たちと関わるのが心底嫌になった。そして、完全に登校を拒否した。

僕は何かを成し遂げるためでも、誰かに羨ましがられるためでもなく、ただ「なんとなく」でここに来た。頼りない動機だけれど、こういう曖昧なもののほうが、案外長持ちすることもある。だから不便さや不衛生さも、本来なら避けたくなるようなことも、「そうそう、これをやりに来たんだった」と受け入れるつもりでいた。少なくとも、成田にいた時は確かにそうだった。

それなのに、学校で韓国人たちと関わるうちに、僕はあっさりと「これじゃない」と断じてしまった。まだ一カ国目だというのに、ずいぶん気が早い。文化の違いに戸惑ったというより、単に自分の想像と少しずれていただけなのかもしれない。
だが、ここはフィリピンで、韓国ではない。韓国文化を愛でるのは韓国の土を踏んだ時でいい。
そう考えると、やることは意外と単純だった。学校の外に出ればいい。「現地のリアルな生活に馴染む」というのも、言葉にすれば恥ずかしいほどに大げさだが、結局は自分の足で歩くことに尽きるのだと思った。
学校は続かなかった。まあ、いつものことだ。だが旅は続く。
だから僕は、平日の昼間から、独りで街へ這い出すようになった。目的など欠片もない。だが、そうして当てもなく歩くことだけが、今の僕にとって唯一、筋の通った振る舞いのように思えた。